国家主席就任には天皇陛下との会見が必要
前記事で、習近平が国賓来日を何としても実現したい理由の対外的な側面を述べましたが、 彼が天皇陛下に会見したい理由はもう一つあります。
それは共産党内部の権力闘争に絡んだ理由です。
日本人の方はご存じない方が多いのですが、実は鄧小平以来の中国の、実権を持つ最高指導者(以下「主席」と表記。国家主席でないのに実権を持っている場合もある)は、すべて「主席」就任前後に、来日して天皇陛下と会見しているのです。
鄧小平の来日と、権力闘争における勝利
1970年代後半、中国国内では共産党のイデオロギーを徹底するべきだとする保守派の華国鋒と、資本主義経済を取り入れ、経済発展を目指すべきだとする改革派の鄧小平が、熾烈な権力争いを繰り広げていました。
当時、国務院副総理(副首相)だった鄧小平は、78年10月に来日しました。この時の来日の目的は、日中平和友好条約の批准書の交換です。
来日した鄧小平は、福田赳夫首相の歓迎を受け、批准書の交換ののち、中国首脳として初めて昭和天皇と会見しました。
この昭和天皇と会談したという事実が、中国民衆の圧倒的支持を得て、帰国後の鄧小平の権力闘争を有利に進ませました。
結局改革派の鄧小平は、保守派(中国では共産党の教義を忠実に守る一派のこと)の華国鋒国家主席との権力闘争に勝利し、81年、中国共産党中央軍事委員会主席に就任、中国の実権を握る「主席」となります。
その後鄧小平は天安門事件で失脚するまで「主席」として権力をふるい、中国に資本主義経済を導入し、経済発展の礎を作ります。
ちなみに鄧小平は最後まで国家主席および中国共産党中央委員会総書記には就任していません。中央軍事委員会主席の立場で実権を行使していたわけです。
江沢民の国家主席就任
前記事で述べた天安門事件における鄧小平の突然の失脚の後、鄧小平の指名によって後継者の地位に就いたのは江沢民でした。
これはあまりにも突然の予期しない政権交代だったため、就任直後の江沢民の権力基盤は極めて脆弱なものでした。
共産党中央委員会総書記と共産党中央軍事委員会主席には就任しており、一応実権を握っていたのですが、国内では反対派の突き上げを食らい、国外からは天安門事件の責任を追及され、苦しい政権運営を強いられていました。
この状況を打開する起死回生の一手が、前記事で述べた92年の来日と、天皇皇后両陛下の訪中です。
天皇陛下と会見した江沢民は、国外においては天安門事件の批判を回避し、国内においては中国民衆の支持を得て、権力基盤を一気に固めます。
そして93年3月、待望の国家主席に就任。3つの主席を兼任し、名実ともに「主席」として実権をふるうようになるのです。
江沢民は国内外の非難や不満をそらすため、それらをすべて日本の責任にする政策をとりました。
江沢民の時代に、歴史問題や靖国参拝問題、南京大虐殺の問題が何度も蒸し返され、そのたびに日本政府は謝罪と賠償を繰り返すことになります。
胡錦涛の権力掌握と天皇陛下との会見
このころから中国では「主席」の任期は2期10年という規定が、憲法に書き込まれるようになります。全人代が5年ごとに開かれますので、全人代から全人代までが1期で2回目の全人代ごとに新たな「主席」を選出するということです。
江沢民は93年の全人代で国家主席に選出されていますので、次は2003年ということです。その一年前の2002年に江沢民が引退し、後継者が共産党中央委員会総書記に任命され、翌年の全人代で国家主席に就任するという流れです。
しかし江沢民は2002年の国家主席の任期満了に向けて、着々と院政の準備を整えていました。自身の権力基盤である上海閥のメンバーを政府要職につけ、引退前に党中央委員の過半数が上海閥で占められていました。
この状況で、ふたを開けてみれば、2002年の党中央委員会で中央委員会総書記に選ばれたのは、共青団の支持を受けた胡錦涛でした。
胡錦涛は翌2003年の全人代で国家主席に就任し、3つの主席を兼任、完全な実権を掌握します。
その後、大方の予想に反して上海閥のメンバーを次々と失脚させ、江沢民の影響力を排除して、あっという間に権力基盤を固めてしまいます。
なぜ胡錦涛は、並み居る江沢民の腹心たちを差し置き「主席」に就任し、その後も江沢民の息のかかった人物たちを追い落とすことができたのでしょうか。
胡錦涛には民衆の圧倒的な支持がありました。それはなぜか。もちろん胡錦涛だけが、天皇陛下と会見していたからです。
胡錦涛は「主席」就任前に二度の来日を果たしています。一度目は1985年。この時は共青団(中華人民共和国共産党青年団)の団長として、政府要人と会談しています。
そして2回目の1998年。この時は国家副主席として来日し、天皇陛下との会見を果たしています。これが国家主席就任にあたって、民衆の支持を得る大きな力となったというわけです。
胡錦涛は、「主席」就任後は、反日運動を取り締まり、反日教育を抑え、日本への謝罪と賠償要求を控える、穏やかな外交政策をとりました。
そしてすべての力を経済発展に注力し、中国のGDPを一気に世界第2位まで引き上げることに成功します。
習近平の天皇陛下政治利用
このあたりでそれまでぐちゃぐちゃだった中国における最高指導者就任の手続きが整備されていきます。条件としては、
1.「主席」の任期は10年
2.西暦年号で2のつく年に前任者が引退し、その年から翌年にかけて3つの主席に順次就任。
3.就任前後に天皇陛下との会見が必要
というところでしょうか。
胡錦涛が引退するのは2012年、この年までに有力派閥の支持を取り付け、天皇陛下との会見に成功したものが時期「主席」となります。
このルールを意識的に利用して、胡錦涛の後の「主席」に就任したのが、ご存じ習近平です。
2000年代後半、習近平は、太子党の第5世代のトップで、同じく共青団の第5世代のトップである李克強と、時期主席の座を激しく争っていました。
太子党と共青団というのは、詳しい説明は省きますが、中国国内の2大派閥です。
習近平は太子党のトップで、江沢民の上海財閥の支持を受け、李克強は共青団の団長で、胡錦涛の腹心です。
これはつまり、2大派閥の抗争であると同時に、現主席と前主席の代理戦争でもあったわけです。
2012年11月には第18回全国共産党代表大会が開かれ、ここで時期主席が正式に決まる予定になっていました。それに向けて習近平は、時期主席の座を内定させておきたかったわけです。
ここで習近平がとった手段が、天皇陛下との強行会見です。
小沢一郎の天皇陛下政治利用事件
皆さん覚えておられますか?
2009年12月、民主党の鳩山内閣のときのことです。中国の要人が日本を訪問するに当たり、天皇陛下と会談したいという希望を出しました。
あまりにも急な話だったのですが、宮内庁の内規では、天皇陛下との会見は、1ヶ月以上前に申請しなければならないという規定があり、宮内庁はこの会談を拒否しました。
このとき当時民主党の幹事長をやっていた小沢一郎が、12月8日に、鳩山首相に対して、会談を絶対やるべきだとして圧力をかけました。
これに反対した宮内庁の羽毛田信吾長官に対して、小沢一郎は「公務員の立場で内閣に反対するならば、辞表を出してから言うべきである」と述べて反対をはねのけ、中国の申請から1週間後の天皇陛下との会談を強引に実現させてしまいました。
当時この事件は、天皇陛下の政治利用だ、といわれて散々マスコミからたたかれましたので、覚えておられる方も多いと思います。
このとき来日した中国の要人というのが、じつは当時政治局常務委員だった習近平なのです。
李克強との権力闘争に終止符を打つに当たり、最後の決定打となったのは、日本の天皇と会談しているかどうかでした。
習近平は小沢一郎のおかげで、鄧小平以来の慣例となっている天皇との会談を実現したのに対して、李克強は実現していない。
この差が決定打となり、習近平は翌2010年10月、中国共産党中央軍事委員会副主席に選出され、時期主席の座を不動のものにしました。
その後、習近平は2012年の胡錦涛引退後、翌年の全人代で3つの主席ポストを兼任し、「主席」に選出されたというわけです。
まったく小沢一郎も余計なことをしてくれたものです。
国賓来日における習近平の狙いは?
さて、では習近平は、なぜこのタイミングで2度目の天皇陛下との会見を行いたいと考えているのでしょうか。
先に挙げた「主席」就任ルールによると、習近平の任期は2022年までとなります。
もちろん習近平は2022年で引退するつもりはありません。2018年の全人代でしっかり憲法を改正し、2期10年までという「主席」の任期規定を削除しました。
習近平本人はこれによって終身主席の座に就いたと思っているはずです。
しかし中国国内の権力闘争は熾烈です。ただでさえ反対勢力の突き上げを食らい、必死で権力維持に努めているところへ、今回のコロナ騒ぎです。
習近平の権力基盤は揺らぎ、2023年以後の主席任期の延長が無事に実現するかどうかは疑問です。
しかしここで天皇陛下との会見が実現したらどうなるでしょうか。
天皇陛下との会見は、新主席が主席に就任するための条件です。これをもう一度実現させれば、習近平は「習近平の後の新主席」として、自分自身を後継者に指名し、新たな主席としてもう一度、堂々と任期を全うできるのです。
それまで主席任期延長に文句を言っていた人々も、これなら納得するかもしれない、中国民衆の支持も得られるだろう、という読みでしょう。
習近平は2022年までの主席の任期を全うし、次の10年の任期に引き継ぐ基盤を固めるために、このタイミングでの天皇陛下との会見が必要であると考えているのです。
習近平の国賓来日は絶対に実現させてはならない
このような事態は、絶対に許してはなりません。
もしも習近平の国賓来日が実現すれば、中国国内の反対派は沈黙し、習近平は2023年後も「主席」の座に居座り続けることになるでしょう。
しかしもしもここで国賓来日が実現しなければ、習近平の権力基盤は揺らぎ、ことによれば内部のクーデターによって「主席」が交代することもあるかもしれません。
日本政府は断固として、習近平の国賓来日を拒否すべきです。
さらに進んで、もしも習近平に対抗する人物が中国国内に存在するならば、その人物を日本に招待し、天皇陛下との会見を実現させることで、その人物を新主席に就任させ、習近平の任期を2022年で終了させることもできるかもしれません。
もっとも、習近平に替わって温厚な統治ができる人材が、中国国内にまだ生存しているかどうかは極めて疑問ですが・・・。