笹原シュン☆これ今、旬!!

日本で、世界で、今まさに旬のトピックスをお届けします。政治、経済、文化、世界情勢など、噛み砕いてわかりやすく解説していければと考えています。同時に、日本の在り方、進むべき道についても、示していければと思っております。

二次大戦の真実4 日本は第二次世界大戦に勝利していた!? 大東亜共栄圏の理想とは。

第1次世界大戦の勃発

 1914年から18年にかけて、第1次世界大戦が発生しました。戦争の概要については教科書やウィキペディアを読んでいただくとして、ここでは植民地主義の立場から見た1次大戦の位置づけについて考えてみましょう。

 

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 日露戦争が終わった時点で、世界中の植民地の分割が完了しました。世界は欧米諸国を中心とする宗主国、アジア・アフリカ・南北アメリカの植民地、緩衝地帯として独立を保っているタイ王国、そして日本、という構図になったわけです。

 

 ちなみに欧米諸国から見ると、日本は新たに登場した宗主国の一つであり、朝鮮半島がその植民地であるように見えています。すなわち彼らの目から見ると、世界は宗主国か植民地にきれいに2分されてしまったわけです。

 

 しかし植民地分割の過程で、イギリスのように広大な植民地を獲得できた宗主国と、ドイツのように、ほとんど植民地を獲得できなかった宗主国があるわけです。

 

 わずかな植民地しか持たない宗主国は、さらなる植民地を獲得したいのですが、地球上にはもはや分割されていない国が存在しません。

 

 この状況でできることはただ一つ。すでに植民地をたくさん持っている国から植民地を奪い取ることです。

 

 かくして宗主国たる西洋諸国同士の植民地の奪い合いが勃発しました。これが第1次世界大戦です。欧米諸国同士が殴り合い、相手の持っている植民地を強奪しようとしたわけです。醜い争いですね。

 

 結果的にはイギリス・フランス・ロシア・アメリカなどの協商国が、ドイツ・オーストリア・イタリア・トルコなどの同盟国に勝利し、勝利した側が敗北した側を解体し、植民地を奪い取ることになりました。

 

 日本は協商側で参戦し、勝利しています。主戦場はヨーロッパでしたので、西洋諸国に武器を売って大儲けし、日本経済は回復しました。日本にとっては、日露戦争と、その後の中国大陸進出の間の小休止のような戦争でした。

 

満州国の建国

 その後日本は、中国大陸に進出し、満州(中国東北部)を制圧します。もちろんここに至るまでは様々な紆余曲折があるわけですが、ここではそれらを全部すっ飛ばして、結論だけを見てみましょう。

 

1931年に満州事変を起こした日本の関東軍が中心となり、翌1932年、中国の東北部に建国された。旧清朝の宣統帝であった溥儀を執政とし、五族協和をかかげた。国際連盟は満州事変を日本の侵略行為と認定したため、日本は1933年に脱退した。翌1934年に溥儀を皇帝とする「帝国」となった。都は新京(現在の長春)。

 

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 満州はもともと満州族(女真族)の出身地です。女真族は中国史で遼とか金とかを建国した民族ですが、その後、清を建国し、1911年まで、中国全土を統治していました。

 

 1911年の辛亥革命で、中華民国が成立し、清は滅亡しましたが、日本はその清の15代目、最後の皇帝である宣統帝溥儀を引っ張り出し、皇帝にすえて、満州国を建国したわけです。

 

 満州国の建国目的は、またもや国防と解放です。

 

 国防については上の地図を見ていただければ一目瞭然かと思います。

 

 御覧のように満州国は新たに日本の領土となった、朝鮮半島をちょうどふさぐ位置にあります。これは、陸路で朝鮮半島に攻め込まれるのを防衛する、という意味で、最適の場所だといえるでしょう。 

 

 もう一つの開放については、この地はもともと満州族の地であったにもかかわらず、中華民国、すなわち漢族に占領されていたことに注意が必要です。

 

 実際には中華民国の施政権は満州には及ばず、軍閥の張作霖の私有地のようになっていましたが、満州族の故地が漢族に支配されていたという意味では同じです。

 

 それを、日本軍の力で漢族を追い出し、満州族の国家であった清の皇帝を担ぎ出して再び皇帝に据え、満州族の国家を作った、これが満州族を漢族から解放した、ということです。

 

 日本は、満州を開放して満州族の手に戻し、その地で支配・被支配の関係ではなく、諸民族が手を取り合って、共存・共栄していく世界を作り上げようとしたのです。

 

 その理念は満州国の国旗にも表れています。

 

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満州国国旗

  この国旗の大きな黄色い部分は日本を表します。左上の部分は、赤が満州族、青が漢族、白がロシア人、黒が蒙古族を表しています。

 

 この5つの民族は、当時実際に満州に住んでいた民族です。この旗は、日本の力を背景にして、満州族と漢族とロシア族と蒙古族が、互いに手を取り合って繁栄していく「五族協和」の概念を表しています。

 

西欧諸国から見た満州国

 しかしこのような、多民族が対等に共存・共栄していこうという発想は、支配・被支配の関係をベースとする西洋諸国には、まったく理解できませんでした。

 

 国際連盟はリットン調査団を派遣し、満州国建国が日本による侵略行為であると断定し、日本はこれを不満として翌1933年、国際連盟を脱退します。

 

 西洋諸国から見ると、満州国建国は、新たに宗主国の座に就いた日本が、満州族開放を口実に、自らの植民地を増やした行為にしか見えません。

 

 自分たちは世界中の国々を侵略し、植民地にしているのに、よく言えたもんだなと思いますが、彼らは文明の遅れた国をキリスト教の教えに導くことが善だと思っています。日本はキリスト教国ではありませんので、同じことをやるのは侵略だ、という発想のようです。

 

 現在の歴史の教科書は西洋視点で書かれていますので、満州国の建国は、日本が中国を侵略し、その一部を植民地にしたと書かれているものが多いようです。

 

 では、実際のところはどうだったのでしょうか?

 

満州国経営の実態

 日本はまず満州中央銀行を設立し、それまで多数流通していた通貨を統一しました。その後、重化学工業を中心に多額の投資を行い、満州国内の産業を振興させ、インフラを整備し、学校を作って義務教育をいきわたらせ、国力を増強させていきました。

 

 これらはすべて日本からの持ち出しであり、満州経営は当然赤字です。もしも満州を植民地として収奪するつもりなら、赤字経営なんてありえないというのは朝鮮と同じですね。

 

 さらに農業にも投資し、食糧増産を図り、満州国の人口は、建国時の2900万人から1942年には4400万人に増加していました。植民地であれば、人口増加はあり得ないというのは、すでに述べたとおりです。

 

 日本は満州国を、対等な友人として扱い、すべての民族を尊重し、投資をしてインフラ整備を行い国力を増強し、人口を増加させていったのです。こんな植民地があり得るでしょうか?

 

大東亜戦争への道

 その後日本は、1937年に起きた盧溝橋事件をきっかけに、中国本土に進出し、中華民国と交戦状態に入りました。

 

 歴史に詳しい方はご存じかと思いますが、この時の関東軍(中国駐留の日本陸軍)は、日本政府の命令を全く無視して、勝手に戦線を広げています。

 

 この原因については、拙著や他の方が書いた書物を参照していただくとして、問題はなぜ関東軍は日本政府の命令を無視したにもかかわらず、戦闘を継続することができたのかということです。

 

 この背景にあるのは、日本国内の世論の後押しです。この時期の新聞を見るとわかりますが、マスコミは連日陸軍の中国における勝利を賛美し、戦争の継続を後押ししていました。

 

 当時のマスコミは、現代のように、外国勢力に支配されているわけではありませんので、この論調は、国民の世論を反映していると考えられます。

 

 政府の命令を無視し、国民からも支持されていなかったら、関東軍は反乱軍として鎮圧されてしまったでしょう。日本政府は苦々しく思いながらも、国民世論に押し切られ、関東軍の軍事行動を黙認せざるを得なかったわけです。

 

大東亜共栄圏の理想

 その国民世論の背景にあったのが「大東亜共栄圏」の思想です。この言葉が公式に使われたのは、1940年になってからですが、新聞や雑誌には、30年代の初頭から何度も繰り返し出てきています。

 

 満州国建国あたりからすでに、国民の間にはこの思想が浸透し始めていたと考えられます。

 

 これは西洋諸国の植民地となっているアジア諸国を、日本の手で開放し、対等な友人として、ともに手を取り合って、共存・共栄していこう、という思想です。

 

 この背景には、天皇のもとで、全世界を一つの家とする、という「八紘一宇」の考え方があります。

 

 具体的には、現在植民地となっているアジア諸国に日本軍を派遣し、宗主国の軍と戦ってこれを追い出し、日本の統治のもとでインフラと国内産業を整備し、独り立ちできるようになったら独立させて、対等な国家として友好関係を築いていこう、ということです。

 

 こうすることによって、西洋諸国の収奪にあえいでいるアジア諸国を開放し、自立した独立国として共存・共栄が図れるということですね。

 

 この思想の後押しを受け、まずは関東軍が中国国内に進出します。当時の中国は名目上中華民国が統治してはいましたが、事実上はイギリス・フランス・ドイツ・ロシアの植民地ですから、まずはこれらの国々を追い出し、日本の統治下において各種投資を行って国力を立て直そうというわけです。

 

 関東軍は1937年には、当時の中華民国の首都であった南京を占領しました。現在の中国は、日本軍がここで一般市民30万人を虐殺したと主張しています。

 

 しかしそんなことがあるはずありません。そもそも人口20万人の都市で、どうやって30万人虐殺するのかという話は置いておきましょう。

 

 日本軍は植民地解放を旗印に戦っていました。これは宗主国の収奪から植民地の住民を守ることを意味します。

 

 このため、日本軍は厳しい軍規のもとに統制され、戦地において略奪・破壊などは一切行っておりません。もちろん民間人を殺害することなんてありえません。

 

 南京ではもちろん一般人に成りすました兵士、すなわち民兵と戦って殺したことはありますが、これは正当な戦闘行為にすぎません。純粋な一般人は一人たりとも殺してはおりません。詳しくは、前掲拙著をご参照ください。

 

西洋諸国の視点

 毎度のことですが、日本軍の中国進出は西洋諸国から見るとどう見えるでしょうか。もちろん、日本が次々と自らの植民地を広げていっているように見えます。

 

 すでに中国に植民地を持っていたイギリスやフランス、ドイツやロシアにとっては、日本は自分たちの植民地を強奪した泥棒のように見えます。

 

 また新たに中国に植民地を築きたいと思っていたアメリカは、日本はアメリカとともに中国に進出しようと約束したのに、だから日露戦争の終戦の仲介までやってあげたのに、約束を破って中国を独り占めにした、許せない、と考えます。

 

 日本にしてみれば、お前に中国を分割して渡したら、植民地にして収奪するだろ、俺たちは植民地を開放しようとしてるんだ、やろうとしてることが全く違うんだよ、ということなのですが、西洋諸国にはこの考え方は理解できません。

 

 結局西洋諸国は、新たに出現して我々の植民地を荒らす、日本という宗主国を何とかしなければならない、と考えるようになるわけです。

 

大東亜戦争の勃発

 1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、これに対してイギリス・フランスが宣戦を布告、第2次世界大戦がはじまりました。その後ヨーロッパ各国がこの戦いに参戦し、文字通りの世界大戦となります。

 

 しかしこの時点ではまだ日本やアメリカは参戦していません。日本はドイツ・イタリアと3国同盟を結んでいましたが、これらの諸国とは全く戦争目的が違います。

 

 ドイツ・イタリアの戦争目的は、第1次世界大戦のリベンジです。1次大戦で負けて植民地・領土を失った国が、それを取り戻すために戦いを仕掛けたわけです。

 

 日本がドイツと同盟を結んだのは、もし戦争になったときにドイツにロシアをけん制してもらい、満州背後の安全を図ろうという保険の意味です。イタリアは付録のようなものです。

 

 アメリカはルーズベルト大統領が選挙で不戦を公約してしまっていたので、参戦できず、対ドイツ参戦のために日本に盛んにちょっかいを出すようになりました。

 

 日本にまず手を出させて、対日戦に突入してから、日本と同盟を組んでいるドイツを攻撃しようということです。

 

 ここでいろいろ紆余曲折はあったのですが、結局日本はアメリカの挑発に乗り、戦争に突入することを決意しました。

 

 戦争目的は、アジアの植民地の開放です。

 

アメリカの視点

 アメリカから見ると、日本の掲げた戦争目的はとんでもないことです。もしこれが実現されてしまったら、自分たちが今までやってきた行為が、とんでもない悪事であることがばれてしまします。

 

 これはもちろん他の西洋諸国にとっても同じです。植民地を開放されてしまったら、自分たちが植民地から収奪できなくなってしまうばかりか、それまで植民地でどんなにひどいことをやってきたかが白日の下にさらされてしまうわけですから、絶対に日本は叩き潰さなければならないわけです。

 

カバール・ディープステートの視点

 前記事で述べたように、植民地主義は、ディープステートの全世界支配戦略の第1弾でした。

 

 自分たちの支配下にある西洋キリスト教諸国が、他の地域をすべて植民地として支配すれば、全世界支配戦略の完成です。

 

 あとは宗主国同士を戦わせて植民地の奪い合いを行わせながら、永遠に戦乱が続く世界を作っていけばいいわけです。

 

 しかしあと少しでこれが完成するというときに、表れた邪魔者が日本です。

 

 日本の言うとおり、本当に植民地の開放なんてやられた日には、全世界支配戦略が失敗するだけでなく、これまで500年間にわたる苦労がすべて水の泡です。

 

 何としても、日本は叩き潰さなければならない、ということです。

 

植民地解放作戦開始!!

 1941年12月8日、日本海軍空母機動部隊はハワイ真珠湾を急襲、日本とアメリカは戦争に突入しました。

 

 現在では第2次世界大戦の一部とされているこの戦いを、日本は、アジアの植民地を開放し、大東亜共栄圏の理想を実現するための闘いという意味を込めて、

 

「大東亜戦争」

 

と呼んだのです。