笹原シュン☆これ今、旬!!

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二次大戦の真実5 日本は第二次世界大戦に勝利していた!? 大東亜戦争の帰趨とその後① マレー沖海戦とマレーシアの独立。

開戦3日の大戦果

 大東亜戦争における緒戦の戦いは、12月8日のハワイ真珠湾攻撃が有名ですが、実は日本がこの日に攻撃したのは真珠湾だけではありません。

 

 

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大東亜戦争における戦闘

 同じ12月8日の真珠湾奇襲よりも前に、陸軍がマレー半島(イギリス植民地)に上陸し、海軍はハワイと同時に、フィリピン(アメリカ植民地)及び香港(イギリス植民地)を攻撃しています。4方面同時攻撃だったわけです。

 

 3日目の12月10日には、イギリス東方艦隊との間で、マレー沖海戦が行われます。ここで日本海軍は、イギリスのプリンス・オブ・ウェールズ及び、レパルスの2隻の戦艦を含む、10隻の艦隊をすべて撃沈します。日本側はほぼ損害なし、という大勝利でした。

 

マレー沖海戦の後世に与えた影響

 このマレー沖海戦は、その後の世界の趨勢に大きな影響を与えました。

 

 まずは、この海戦は、航空機のみの攻撃によって戦艦を撃沈した、人類史上初の戦いでした。これはのちの海戦の手法に革命をもたらします。

 

 そしてそれ以上に大きな意味を持ったのは、マレー沖海戦は、植民地の人々の目の前で、有色人種が宗主国の白人に正面から戦いを挑んで、完全勝利を収めた、はじめての戦いであったということです。

 

 20世紀初頭の時点で、白人たちは有色人種たちの国をほぼすべて植民地とし、支配と収奪を行っていました。植民地の人々はそれまで何度も反乱を起こしましたが、そのたびすべて鎮圧されてしまっていました。

 

 この状態が長く続いたので、白人は有色人種よりも優れた人種であり、有色人種が白人に戦いを挑んでも絶対勝てないのだ、という考え方が、有色人種の間に根付いてしまっていました。

 

 しかし、マレー沖で、日本が、東南アジアの人々が見ている目の前で、イギリス艦隊を撃沈したことで、この「白人の呪縛」が解かれ、有色人種であっても白人に勝てる、という確信を、アジアの人々に持たせることに成功したのです。

 

 

マレーシアの独立

 現在マレーシアとなっているマレー半島およびシンガポールは、1874年以来、イギリス領マラヤとして、イギリスの植民地となっていました。

 

 この地域は今も昔も、錫の世界的大産地です。

 

 イギリスは。この地で華僑に錫鉱山を開発させ、マレー人の農民を強制労働させて、錫の採掘を行っていました。

 

 マレー人たちは、何度も反乱を試みましたが、その度鎮圧され、白人は優れた人種であり、アジア人は白人には勝てない、と思い込み、イギリスの収奪を受け入れていました。

 

 この状態で、1941年12月がやってきました。日本軍がマレー半島に攻め込み、マレー沖海戦が行われました。

 

 マレー人たちは、日本は白人には勝てないだろうと思っていたのですが、その意に反し、日本軍はマレー人たちの目の前で、プリンス・オブ・ウェールズとれパルスを撃沈し、イギリス太平洋艦隊を全滅させました。

 

 その後日本軍は、マレー半島全域を2か月で制圧し、シンガポールに攻め込みました。

 

 シンガポールは難攻不落の要塞と言われていましたが、日本軍はこれを1週間で陥落させ、マラヤ全域を日本の統治下に加えました。

 

 日本はマレー人を一人も殺すことなく、マラヤを占領するイギリス軍とその片棒を担ぐ華僑たちを一掃し、マラヤを同胞として迎え入れたのです。

 

 この件に関して、のちにマレーシア独立戦争を指揮した、マレーシア建国の父を呼ばれるラジャー・ノンチック氏は以下のように回想しています。

 

「私たちは、マレー半島を進撃していく日本軍に歓呼の声を上げた。敗れて逃げてゆく英軍を見たときに、今まで感じたことのない興奮を覚えた。しかも、マレーシアを占領した日本軍は、マレーシアを日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの国の国語を普及させ、青少年の教育を行ってくれたのだ。」

 

日本によるマレーシア統治

 日本によるマレーシアの統治は4年余りの短いものでした。その統治は、上記のノンチック氏の言葉の通り、植民地として収奪するのではなく、マレー人を同胞として迎え入れ、将来の独立と、その後の自力発展のために協力する形のものでした。

 

 日本本土から投資を行い、インフラを整備し、錫鉱山を開発しました。現地の人たちを正当な賃金で雇い入れ、錫採掘の利益をマレー人に還元しました。

 

 小学校を作り、現地の言葉で教育を行い、識字率を上昇させ、初等教育をいきわたらせました。

 

 この4年間の日本の統治によって、マレー人は生まれ変わりました。白人から一方的に収奪されるのではなく、自分たちの手で白人を排除し、自分たちの手で国家を発展させることができるのだ、という考え方が、マレーシア全土にいきわたったのです。

 

イギリス再統治とマレーシア独立

 1945年、日本の降伏後、この地にイギリスが戻ってきました。イギリスはまたもとのように、植民地支配を行い、収奪を行おうと試みました。

 

 しかし、マレー人は、もはや以前のマレー人ではありません。マレー半島全土で反英運動がおこり、各地でマレーシア独立を旗印に、独立軍が蜂起しました。

 

 その独立運動のリーダーとなり、マレーシアを独立に導いたのが、前述のノンチック氏です。

 

 1957年、イギリス領マラヤ連邦は、イギリスから独立を果たしました。

 

 その後、1963年、マラヤ連邦に、シンガポール、北ボルネオ、イギリス領サラワクが統合し、マレーシアが成立しました。

 

 1965年には、華僑を主体とするシンガポールが、マレー人を主体とするマレーシアから追放される形で分離・独立しました。

 

アジア植民地独立に際しての日本の役割

 このマレーシア、ひいてはその他のアジア諸国独立に際して、日本はどのような役割を果たしたのでしょうか。

 

 それは1992年に行われた、マレーシアのマハティール首相の以下の演説に如実に表れています。

 

「東アジア諸国でも立派にやっていけることを証明したのは日本である。そして他の東アジア諸国はあえて挑戦し、自分たちも他の世界各国も驚くような成功を遂げた。東アジア人は、もはや劣等感にさいなまれることはなくなった。いまや日本の、そして自分たちの力を信じているし、実際にそれを証明してみせた。
もし、日本なかりせば、世界はまったく違う様相を呈していたであろう。富める国はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたと言っても過言ではない。北側のヨーロッパは、永遠に世界を支配したことだろう。マレーシアのような国は、ゴムを育て、スズを掘り、それを富める工業国の言い値で売り続けていたであろう」

 

 ヨーロッパ諸国の植民地となり収奪されていたアジア諸国は、大東亜戦争で、白人の宗主国が、アジア人の日本に敗北するのを目の当たりにしました。

 

 これでアジア人は白人には勝てないという幻想が根底から崩れました。

 

 その後の日本の統治によって、国内産業が発展し、青少年が教育を受け、自分たちの力で国を運営していけるんだという自信を得ることができました。

 

 その後、宗主国が戻ってきたときに、彼らは迷うことなく反乱を起こし、自らの手で鞘腫国を追い出し、独立を勝ち得ることができたわけです。

 

 この精神的基盤を形成したのは日本であり、日本の大東亜戦争による活躍と、日本統治による国力の発展だったわけです。

 

 日本は大東亜戦争で、アメリカに無条件降伏しましたが、その植民地解放の精神はアジア諸国に確実に根付き、その後の植民地解放をもたらすことができたのです。