プラザ合意の締結
1985年8月12日の日本航空123便撃墜事件から、一か月ほどたった、9月22日、ニューヨークのプラザホテルにて、アメリカ・イギリス・西ドイツ(当時)・フランス・日本の先進5か国による蔵相・中央銀行総裁会議が開かれました。
日本からは、中曽根内閣のもとで、竹下登大蔵大臣(当時)が、この会議に出席します。ちなみにこの当時、ドイツは東西に分かれていて、EUはまだこの世に存在していません。
20分余りで終わったこの会議において決まったことは「自由貿易を守るため、各国で協調してドル安路線を守る」というものでした。
もちろんこれは名目で、実際の狙いは日本円です。
アメリカのドルは、当時のイギリスのポンドや西ドイツのマルク、フランスのフランに対しては十分安かったので、あとは日本円に対してドル安を維持すればよいだけだったのです。
つまりこの協定は、これら5か国で為替に協調介入し、円高ドル安に誘導しよう、という取り決めでした。
これは「プラザ合意」と呼ばれています。
当時1ドル=240円前後だった為替レートは、プラザ合意発表の直後、一夜にして20円円高となり、その後もどんどん高くなり、1ドル150円となり、最終的には1ドル120円まで上昇しています。
5か国協調介入は、見事に成功したというわけです。
プラザ合意に隠された意図
これ以前にも、アメリカは何度も日本に対して、為替レートを円高ドル安に誘導するよう要求してきました。
しかしそのたびどごに、歴代の総理大臣がアメリカの要求をのらりくらりとかわし続け、安定的な円安を維持してきました。
これは自動車を中心とする輸出産業を守るため、また資産投資を日本国内に投下させ、国民経済を発展させるための政策です。
日本国内で一台240万円の自動車は、一ドル150円だとアメリカ国内では1万6000ドルで売ることになります。しかし1ドル240円なら1万ドルで売ることができるのです。
円安の状態を維持すれば、日本国内で製造した製品をアメリカ国内で、安く販売することができ、売れ行きが大幅に上がるというわけです。
逆に、日本に住む人がアメリカ国内の株式や不動産に投資しようとすると、1ドル150円だと1万6000ドル分の資産を買えるところが、1ドル240円だと1万ドル分の資産しか買うことはできません。
これでは割高になってしまうので、日本人のお金持ちは、日本国内の株式や不動産、日本国債に投資します。
これはまわりまわって日本人の懐を潤し、日本全体が豊かになっていくというわけです。
しかし、アメリカから見ると、これはかなり困ったことになります。
この当時、アメリカ国内の製造業は、ほぼ壊滅状態になっていました。
日本からの自動車、機械、電化製品が安い価格で洪水のように押し寄せ、アメリカの自動車会社、電機会社はほぼ崩壊の危機に陥っていたのです。
これは経済的にも、国防の観点からも、アメリカとしては見逃すことができませんでした。国防のためというのは、日本と関係を悪化させると、アメリカ国内の自動車や電化製品の供給が確保できなくなるという意味です。
製造業に希望が見いだせなくなったアメリカは、この時代において最新の技術だった、パソコンやIT産業に活路を見出します。
また金融を強化し、他国よりも金利を高くして、各国からの投資を募り、投下された資金で経済を回す路線に転換していました。
しかし、IT産業においても当時の日本は強かった。パソコン本体ではNECのPC9800シリーズが日本国内・国際市場を席巻し、メモリなどの部品の国際市場を独占し、OSについても、当時世界最高性能のTRONを無料で世界中に供給しようという体制を整えていました。
ちなみに、この時代、携帯電話やスマートフォンは、まだこの世に存在していません。
さらに金融においても、当時世界2位の経済大国である日本の投資が、日本国内に集中していたので、アメリカとしては、これを何としてもアメリカ国内に持ってきたかったというわけです。
これらの問題を一気に解決に導いたのが、日航123便撃墜事件と、それに続くプラザ合意でした。
ドル・円切り下げについては、それ以前にも何度もアメリカは、日本に要求してきていました。
しかし、中曽根康弘までの歴代首相が、のらりくらりと要求をかわし、これを拒否し続けていたのです。
そして日航123便撃墜事件によって弱みを握られた中曽根首相は、ついにアメリカの要求に屈することになったというわけです。
当時の竹下登蔵相は、中曽根首相にプラザ合意への出席を命じられた際も、なおも強硬に出席を拒んだといわれています。
しかし、竹下蔵相は、米軍につかまり、横須賀基地に連行され、ヘリに逆さづりにされて海中に何度も上半身を沈められるという拷問を受け、ついにプラザ合意への出席を了承することになったのでした。
プラザ合意は、アメリカにとってそこまでしても絶対に達成したいミッションだった、というわけです。
為替介入の真実
このプラザ合意の成功によって、日本からのアメリカへの輸出攻勢は一気に弱まり、アメリカは一息つくことができました。
実は、アメリカがプラザ合意を急いだ理由はもう一つあります。
当時のアメリカは、レーガン大統領によるレーガノミックス政策を進めていた最中でしたが、財政赤字と貿易赤字の双子の赤字に悩まされていました。
当時この2つの赤字は天文学的数字になってしまっており、外国が買った国債の利払いが怪しくなるレベルに到達していました。
国債の利払いができないということは、アメリカ合衆国が財政破綻に陥るということです。
アメリカはこの事態を回避すべく、今すぐにでも大量のキャッシュ、ドル札を必要としていたわけです。
この問題はプラザ合意によって、一気に解決しました。
日本円に対し、5か国協調で為替介入を行い、大幅な円高を実現したからです。
それではなぜ、為替介入を行うと、アメリカ政府にキャッシュが入るのでしょうか。このからくりがわからないと、アメリカが日本からどうやってお金を搾り取っているのかがわかりません。
例えば為替介入によって、アメリカが100兆円分の円を買ったとします。これはすなわち日本が100兆円分の円をドルに交換したということです。
円が大量に買われたので、急速な円高になります。
ではこの時、日本政府が円と交換した100兆円分のドルはいったいどこに行くのでしょうか。
日本国内においてドルの使い道はほぼありません。かといって、こんなに大量の預金を受け入れることのできる銀行はこの世にありません。
結局日本政府は、この100兆円分のドルで、アメリカ国債を買うことになります。
アメリカ国債は、アメリカ財務省が発行しています。アメリカ財務省は、100兆円分のドルを受け取って、国債の証書を発行します。
結局日本政府が受け取った100兆円分のドル札は、そっくりそのまま、アメリカ政府の懐に入ることになるのです。
上のグラフを見ると、それまでほとんどアメリカ国債を買っていなかった日本政府が、1985年を境に、一気にアメリカ国債の保有額を増やしているのがわかります。
さらにその後急速な円高が進んで、輸出産業から何とかしてくれと陳情された日本政府は、円安に誘導すべく再び、今度は日本側から、為替介入を行います。
つまり、日本が円を売ってドルを買うわけです。この時も日本政府の手元には大量のドルが残ります。
このドルで日本政府はアメリカ国債を購入します。結局ドル札はアメリカ政府の懐に入るというわけです。
どっちにしろ、為替介入を行えば行っただけ、同じ金額がアメリカ政府の懐に入る構造になっているのです。
このアメリカ政府に資金を献上するための為替介入は、これからもちょくちょく登場してきます。
為替介入を行った=同じ金額のドル札を、アメリカ政府に献上した、という構造を、しっかり覚えておいてください。
日本の対応
それではプラザ合意後の急速な円高の影響を受けた日本の企業は、どのような対応をしたのでしょうか。
円高による輸出品のアメリカ国内における価格上昇は、一時的に国内の輸出産業に大きな影響を与えました。
しかし、自動車会社や、電機会社は、この危機を、生産性の上昇や、工場をアメリカ国内に移転するという方法で回避することができました。
日本で製造してアメリカに輸出すると為替の変動の効果をもろに受けてしまいますが、工場がそもそもアメリカにあって、アメリカで製造してアメリカで売る分には為替の変動の影響はないわけです。
しかしこの日本製造業の生産拠点の海外移転によって、本来日本国内の従業員に支払われるはずの人件費が、現地雇用のアメリカ人に支払われることになり、日本人の従業員が日本国内で使うはずのお金は、アメリカ人の従業員がアメリカ国内で使うこととなりました。
日本人に入るべきお金が、アメリカ人に入るようになったというわけです。
また日本国内を市場とする製造業は、円高による原油購入価格の大幅低下によって、かえって利益を上げる企業が多かったようです。
この時点ではまだ、日本の企業はそれまでに培った地力がありましたので、プラザ合意によって直接大きな打撃を受けることはなかったというわけです。
アメリカ国内の資産の買い占め
当時まだまだ巨大な力を持っていた、日本のメーカーや不動産会社、商社にとって、急速な円高は、大きなチャンスをもたらしました。
それは、アメリカ国内の資産を割安で買えるようになったことです。
アメリカ国内で1億ドルの価格のビルが、1ドル240円の時代には240億円したのが、1ドル150円になれば、150億円で買えるというわけです。
これによって、85年以降、日本企業によるアメリカ国内の土地、建物、株式などの資産が大量に買い占められるようになりました。
89年には、ソニーがコロンビアを買収し、三菱地所がロックフェラーセンターを買収するまでになっています。
これはアメリカ人にとっては脅威でした。現在北海道の土地が中国に買い占められていると騒いでいますが、一足先に、日本がアメリカの土地を買い占めるという事件があったのです。
アメリカ政府は業を煮やし、日本政府に圧力をかけてきました。日本国内で大規模公共事業を行い、日本国内の資金を日本国内で消化しろ、アメリカの資産を買うな、というお達しです。
アメリカ政府が日本政府に、日本の民間企業の行動を規制しろと要求したのはこれが初めてですが、これはのちに、日米構造協議という形で本格化することになります。
バブル景気の到来
それではさきほど為替介入で、アメリカ政府が手にした日本円はどこに行ってしまったのでしょうか。
アメリカ政府は、日本政府と違って、手にした100兆円で日本国債を買うことはありませんでした。
アメリカ国内で大量の円の需要があったからです。
アメリカ国内で円を買ったのは、主にアメリカに進出した日本企業です。
自動車産業や電器産業は、アメリカに生産拠点を移しましたが、本社は依然として日本にあります。
アメリカで製造販売した自動車の代金はドルで支払われます。しかしこのままドルで持っていても日本国内で使うことはできませんので、現地で円を買って、日本に送金するのです。
さらにアメリカの資産を買った企業も、本社は日本にありますので、そこでドルで得た利益を円に換えて、日本に送金することになります。
結局、為替介入の際、日本銀行が発行した円札は、アメリカ政府にわたり、アメリカの金融市場に放出されて、日本企業が買い取り、日本国内に還流することとなりました。
こうして日本国内には大量の円札がだぶつくことになります。
このような事態では通常、大変なインフレが起きるものですが、当時の日本のインフレ率は大したことはありません。
それでは日本に還流した円はどこに行ったのでしょうか。
この時、日本国内では、先に述べたアメリカ政府の圧力によって、大規模公共事業が展開されていました。
日本に還流した円札は、この公共事業によって不動産、すなわち土地や建物、に次々と投下されていきました。
不動産価格はぐんぐん上昇し、それに伴って株式や社債なども大幅な上昇を始めました。
企業のみならず、一般の人々も、不動産や株に投資し、財を成す人が続出しました。
こうしてプラザ合意の後から1989年まで、日本国内は「バブル景気」と呼ばれる空前の好景気を迎えることになったのです。