笹原シュン☆これ今、旬!!

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日米経済戦争6 行政改革という名の罠!? バブル景気の真っ最中に、日本国民から収奪するための仕掛けが着々と進んでいた?

行政改革の試み

 ここで少し時をさかのぼり、中曽根内閣に至る少し前から始まった、行政改革の流れについてみてみましょう。

 

 80年代初頭にマスコミがDSの手に落ち、マスコミ各社がDSのプランに沿ったプロパガンダ機関と化してしまったことは、「北朝鮮の真実6」の記事で紹介しました。

 

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 それと時を同じくして、マスコミが「行政改革」を叫び始めます。

 

 規制緩和と民営化を叫び、グローバル経済を導入しろ、というプロパガンダをがんかん流したわけです。

 

 ほどなく81年に、鈴木善幸内閣の行政管理庁長官(当時)だった中曽根康弘は、「第2次臨時行政調査会」を設置し、行政改革に着手します。 

 

 この調査会は、当時経団連会長だった土光敏夫を会長としていたので、「土光臨調」とも呼ばれています。

 

 委員の中には、元陸軍参謀中佐で、伊藤忠商事会長を務め、のちに中曽根内閣の顧問を務めた、「昭和の参謀」瀬島龍三も含まれていました。

 

 土光臨調は、「増税なき財政再建」を掲げ、83年までに5回にわたる答申を行い、行政改革の方針をまとめました。それらは、

 

1984年度までに赤字国債ゼロ

福祉の削減、国民負担率の増加

省庁再編

官業民営化

国鉄分割民営化

日本電信電話公社民営化

日本専売公社民営化

3K赤字(コメ、国鉄、健康保険)の解消

 

などというものでした。

 

官業民営化

 一見すると美しい言葉が並んでいますが、これらは、まあようするに、国民の負担を増やし、官業をグローバルDSに売り払う、というものです。

 

 それまで無料だった老人医療は、1割負担とされ、サラリーマンの健康保険は1割負担だったものが3割負担となりました。

 

 生活保護については、有名な「123号通知」が出されました。これは、窓口で申請をいきなり受けずに、まず「相談」しろという通知です。

 

 申請されると受理しなければならないので、とりあえず「相談」という形で話を聞いて追い返せ、申請させるな、という政策です。

 

 これによって生活保護の申請が大幅に抑制されました。ちなみにこれが適用されるのは日本人だけです。外国人はこれまで通り、すぐに申請して受理するということです。

 

 第2臨調のもう一つの柱、官業の民営化も、着々と進められていきます。

 

 1985年4月1日には、電電公社と専売公社が民営化されました。

 

 電電公社はNTTに変わり、専売公社は塩を自由化して、たばこをJT(日本たばこ)が販売するようになりました。

 

 残る国鉄は、労働組合の抵抗が強く、この時点での民営化は先送りにされました。

 

日航123便の衝撃

 このタイミングで、日航123便撃墜事件が起きたわけです。

 

 この事件によって、DSは、ついに念願のドル切り下げに成功したのは、前記事に書いた通りです。

 

 そして中曽根首相が抵抗できなくなったのを見て、DSは間髪入れずに次々に攻撃を繰り出してきます。

 

 プラザ合意の直後、その後の日本の将来を決することになる、2つの法律が制定されました。

 

 一つは「男女雇用機会均等法」、そしてもう一つは「労働者派遣法」です。これらの法律は、制定の翌年1986年から施行されました。

 

 男女雇用機会均等法は、それまで男性中心だった一般の企業でも女性を雇うこと、また、女性専用職と思われていた職業においても男性を雇うことを義務付けました。

 

 これを受けて看護婦が看護師となり、スチュワーデスがキャビンアテンダントとなりました。

 

 労働者派遣法は、派遣会社を認め、そこから労働者を企業に派遣することを認めた法律です。

 

 それまでの日本は、企業は正社員しかいませんでしたが、これ以降、企業内に派遣社員が登場することとなるのです。

 

 中曽根首相が退陣し、竹下登が首相となった1987年4月1日、ついに国鉄が民営化されます。

 

 日本国有鉄道は、6つに分割され、JRとして、民間企業の形で運営されることになったのです。

 

 国鉄内の根強い労働組合の抵抗も、日航123便の衝撃の前には、すべて吹き飛んでしまったというわけです。

 

行政改革の真実

 80年代からのこれらの政策を一言で言い表すならば、「グローバル経済への転換」となると思います。

 

 これはようするに、日本の富をグローバルDSに献上する政策です。

 

 当時の日本は、一億総中流社会とよばれ、極端なお金持ちがあまりいないのと同時に、いわゆる「貧乏」な人が存在していませんでした。

 

 失業率は3パーセントに満たず、ほぼすべての就業年齢の男性が、企業の正社員として働いていました。

 

 女性は専業主婦として家に残り、家事全般と子育てをするのが一般的で、男性は会社で働き、女性は家事をするという分業制が成立していました。

 

 一億総中流ということは、ほぼすべての国民が十分な購買力を持っているということです。

 

 この国民が持つ購買力を背景に、分厚い内需が存在し、日本国内だけでほぼすべての必要品が賄える状態になっていました。

 

 また、郵政や鉄道、電信電話などのサービスは国家が管理し、投資も国内で賄われ、日本国民の富が日本国内で循環する体制が確立していたのです。

 

 しかしこの状態は、グローバルDSにとってはとてもまずい状況です。

 

 日本人が一生懸命働いた成果がすべて日本人に還元されてしまい、自分たちが略奪する余地が全くなかったからです。

 

 80年代の行政改革は、この盤石な日本システムに風穴を開け、日本人の富をグローバルDSがかすめ取ることが可能なシステムに変換することを目的として行われました。

 

 国鉄や電電公社、専売公社を民営化したということは、それまで売り上げがすべて日本政府に入っていたものが、民間に入ることを意味します。この民間にはもちろん、外国企業も入っていました。

 

 さらに、これらの組織が投資する先が、ほぼ日本国債、日本株だったところを、民営化された組織の株式を買い取り、経営に参画することで、アメリカ国債、外国株への投資の割合を徐々に増やしていきました。

 

 これは日本人の富が日本国内に還流せず、外国に流出し始めたことを意味します。

 

壮大な仕込み

 その他、日本人の健康保険の負担率の上昇、福祉の削減、男女雇用機会均等法や、労働者派遣法の制定などは、数十年かけてゆっくり日本人を貧困化させてゆくための壮大な仕込みです。

 

 この当時は日本はまだまだ国力が有り余っており、日本人も豊かだったので、あまり気に留める人はいませんでしたが、これらの政策は、のちにバブル崩壊後に牙をむき、日本人に襲い掛かり、日本人の富を根こそぎ奪っていく原動力となります。

 

 これについてはのちの記事で詳しく述べますが、全体の流れを見てみると、グローバルDSは、この時点で、これらの政策の意味と、それが日本社会に与える影響をしっかり認識していたことがわかります。

 

 種明かしをすると、これらの政策のセットは、日本以外にヨーロッパ各国などですでにセットで施行され、その結果、ほとんどの国はグローバルDSに富を収奪される体制になってしまっていたのです。

 

 この少し前の80年代前半でも、ニュージーランドにおいて、ロジャー・ダグラス財務大臣が行ったロジャーノミクスが、ほぼ、日本の行政改革と同じ内容です。

 

 グローバルDSは、戦後すぐから、もしくはおそらく前文明のころから、国民の富を収奪し、貧困化させるにはどうすればいいかを知り尽くしており、それを各国で実行していました。

 

 そして最後に残った日本に、これらの政策のセットを実行させたというわけです。

 

 これらの政策の実行には、マスコミによるプロバガンダ、およびショックドクトリンが用いられました。

 

 日本DSの首相たちは、これらの政策が日本を滅ぼすものだというのはわかっていて、度重なる要求をはじき続けていました。

 

 しかし80年代からのマスコミの徹底的なプロパガンダ、高度成長は終わった、日本は低成長期に入った、今までのようにお金を使ってはいけない、財政再建が必要だ、などの報道にひきずられ、行政改革を部分的に受け入れてしまいました。

 

 そして最後の仕上げとして、日航123便撃墜事件が用いられたというわけです。

 

 これによって、最後まで抵抗していた、ドルの切り下げ、国鉄民営化その他の政策が、実行されてしまったというわけです。

 

グローバルDSの攻勢

 ここまで仕込みを行った段階で、ついにグローバルDSは、日本経済に対し、本格的な攻撃を仕掛けてきました。

 

 その第1弾が、1988年、竹下登首相に突き付けられた「BIS規制」です。

 

 これは、国際決済銀行(BIS)によって定められた、「すべての銀行は、自己資本比率8%を維持しなければならない」という規制です。

 

 これだけでは、これが何で日本に対する攻撃なのか、わからないと思います。

 

 ここでもう一度、「日米経済戦争1」の記事で上げた、当時の世界の企業時価総額ランキングの表を見てみましょう。

 

 

 

 1989年の時点で、世界の(日本ではありません)大企業ランキングのベスト10中7つまでが日本企業です。そのうち5つは日本の銀行でした。

 

 当時の日本の銀行は、圧倒的な力で世界を制していたわけです。

 

 なぜ日本の銀行は、こんなに強かったのでしょうか。それは日本国内の莫大な内需に裏打ちされた、資金貸出量の多さにありました。

 

 その背景にあったのが、圧倒的な信用の下で培われた、自己資本比率の低さです。

 

 自己資本というのは、銀行が実際に持っているお金です。これは中央銀行の口座に、銀行が実際に預けているお金です。

 

 銀行は自分が実際に持っているお金以上に資金を貸し出し、利益を得ています。これは信用創造と呼ばれています。

 

 まあ、これ自体がとんでもない詐欺行為なんですが・・・。

 

 たとえば自己資本比率8%というのは、貸出金に対する、実際に持っているお金が8%、つまり自分が持っているお金の12.5倍の資金を貸し付けているということです。

 

 当時の欧米の銀行の自己資本比率は8~10%程度でした。

 

 これに対して日本の銀行は、5~6%程度を維持していました。自己資金比率5%ということは、実際に持っているお金の20倍の資金を貸し付けていたということです。

 

 10兆円のお金を持っている銀行は、欧米では125兆円を貸し付けていましたが、日本では200兆円を貸し付けることができたわけです。

 

 これでは全く勝負になりません。日本の銀行は欧米の銀行を圧倒し、世界最強の地位を守ることができたというわけです。

 

 グローバルDSは、この日本の銀行の強みに目を付け、自己資本比率を欧米の銀行並みの8%にしろ、と迫ったわけです。

 

 スキーのジャンプや水泳などで、自分たちが負けると、自分たちに有利なようにルールを変える、欧米の自己中心主義がここにも如実に表れていますね。

 

 BIS規制が布告されたとき、日本の銀行は一時的にパニック状態に陥りました。

 

 今まで200兆円貸し付けていたのが125兆円に減るということは、貸付額を少なくするか、自己資本を上げるしかありません。

 

 貸付額を少なくすれば、銀行の利益が縮小するばかりか、銀行から借りて企業を運営している日本企業の経営にも影響が出ます。

 

 しかしこのとき日本はバブル経済の真っ最中でした。

 

 BIS規制の施行には3年の猶予があったので、その間、日本の銀行は金利を上げまくり、利益を上げまくって自己資本を増強し、何とか規制の実施に間に合わせました。

 

 この時はまだ日本経済に余力があったので、これによって、貸出額が減少し、日本経済が縮小することは回避できたというわけです。

 

 そしてグローバルDSによる最後の仕込みは、翌1999年に実施されました。

 

 それが、竹下登内閣による「消費税」の導入です。