酒とたばこは体に悪い?
すでに述べたように、2020年から始まった、新型コロナウイルス感染症騒動は、存在しないウィルスをでっちあげ、マスコミで恐怖をあおって、
毒ワクチンを接種させ、人口削減を行う、という陰謀でした。
このとき、毒ワクチンを打ってしまった方は、もう助からないのかというとそうでもなく
ワクチンの毒を浄化する飲食物や、薬は、かなりたくさんありました。
その代表例が、酒とたばこです。
酒を飲み、たばこを吸うと、ワクチンの毒素が浄化されてしまうので、DSは、あらゆる手段を使って、この2つを規制してきました。
最初に新型コロナパンデミックが起きた時、飲食店を規制し、酒の提供を8時までに制限したりしましたね。
たばこのほうは、もう長い間、さまざまな規制が行われています。
これらはすべて、2020年からのコロナ騒動を見据えて、長い時間をかけて事前に準備が進められてきました。
その極めつけの例が、アメリカで1920年から行われた、「禁酒法」です。
え、何それ、時代が全然違うじゃん、なんで100年前の法律と、現在の新型コロナが関係あるの?
と思った方。新型コロナパンデミックは、今になって初めて行われたわけではありません。
まったく同じ陰謀が、今からちょうど100年前、すでに行われていたのです。
それがスペイン風邪のパンデミックです。
スペイン風邪の陰謀
第一次世界大戦の真っ最中の1918年から、1920年にかけて、世界中で流行し、1億人余りの死者を出したとされるのが、スペイン風邪です。
これは、恐ろしい風邪が流行っていると、マスコミ(当時はテレビはなかったので、新聞とラジオ)で宣伝し、ワクチンを打たせて、ワクチンで殺すというスタイルの、
DSによる人口削減政策でした。
これについて詳しくは、私の以下の記事をご参照ください。
スペイン風邪は、DSにとって画期的な疫病でした。
それ以前もDSは、ワクチンを打って虐殺を100年ごとに繰り返していました。
それがペストや天然痘です。
しかし、これらは、細菌性の疫病で、確かにワクチンにペスト菌や天然痘菌を入れれば、パンデミックは起きるのですが、
細菌は生きていて、自律的に動くので、感染者からDSに伝染し、自爆してしまうことが多くありました。
それに対してスペイン風邪は、そもそも存在していないウィルスで引き起こされると銘打ち、
マスコミで騒ぎを演出して、ワクチンを打たせるので、ワクチンを打たないDSには絶対に感染しない病気だったのです。
まさか存在しない病気で、マスコミが騒ぐだけでみんなワクチンを打つとは、DS自身も思っていなかったようで、
この成功に気をよくして、次の100年後もこの手で行こう、と言って創られたのが、新型コロナパンデミックだったわけなのです。
スペイン風邪の際に打たれたワクチンは、さまざまな毒や細菌のごった煮だったようです。
多くの人はこれで死亡しましたが、中にはあまり重症化しない人や、まったく効かない人もいました。
DSは、その原因を詳細に調査し、一つの結論に達しました。それは、
「酒を飲んだり、たばこを吸ったりする人たちは、ワクチン打っても死なない」
というものでした。
禁酒法の登場
これからもずっと、100年ごとに、架空のパンデミックを起こして、ワクチンで人口調整しようと考えていたDSたちは、
すかさず、ワクチンの特効薬となる、酒とたばこをこの世界から撲滅しようと考えました。
DSが、まず手を付けたのは、酒のほうです。
アメリカはなんと4分の3の州の賛成のもとに憲法を改正し、1919年1月16日、合衆国憲法修正18条で、アルコール飲料の製造・販売を禁止しました。
またこの対象となるアルコール飲料の範囲を、ボルステッド法(国家禁酒法)で制定し、酔いをもたらす飲料として、アルコール度数の高いほぼすべての飲料を、禁酒法の対象としました。
このボルステッド法は、あまりにも過激だとして、当時のウィルソン大統領が拒否権を発動して一度は握りつぶしますが、1919年10月28日、議会が再可決して成立してしまいます。
これらの法律は、翌1920年1月16日から、施行されました。
かくして、スペイン風邪パンデミックが終息した直後の1920年、アメリカで、「禁酒法」が実施されることとなったのです。
このときDSが禁酒法制定の理由として掲げたのは、道徳の再建です
第一次世界大戦で崩壊した国家道徳を、禁酒によって立て直そうというのです。
戦時中は、やけになって酒を浴びるように飲み、家庭が崩壊したという理由です。
実際には政府の政策によって、生きるすべを奪われたひとびとが、様々な問題を起こしていたのを、すべて酒のせいにして、
ワクチン浄化作用のある酒を、規制してしまおうという作戦です。
密造酒の乱立
それでは禁酒法下のアメリカ国民は、政府の言うとおり、素直に酒を飲むのをやめたのでしょうか。
もちろん、まったくそんなことはありませんでした。
アメリカ人は、あの手この手で法の目をかいくぐり、酒を飲み続けました。
そもそも禁酒法自体が、酒の製造・販売を禁じただけで、飲酒そのものは禁じていませんでした。
そのため、もともと家にあった酒を飲んだとしても、罪に問われることはなかったわけです。
ということは、家で酒を造ってしまえばいいわけです。また誰かが密造した酒を、こっそり手に入れたとしても同じです。
もしくは、国外から酒を密輸入して、もともと家にあったと言い訳すれば、いくらでも飲めるのです。
この時代は、各家庭で酒が製造されていました。バスタブに市販の燃料用アルコールと水、香料を入れて、蒸留器を沈め、蒸留してジンを作るのです。
こうして作られたお酒は、バスタブ・ジンと呼ばれていました。品質はお世辞にも言いとはいえず、味もひどかったので、できたジンをさまざまなジュースで割って飲んでいたのです。
現在のジンベースのカクテルは、こうしてできたのでした。
スコッチ・ウィスキーの製法が確立したのもこのころです。
当時のウィスキーは、小麦を発行させたモルトを蒸留してそのまま飲んでいました。現在のスピリッツと呼ばれるお酒です。
しかしこの時代は、カナダで作ったウィスキーを、アメリカに密輸入しなければなりませんでした。この時用いられたのが、木製のたるです。
樽に入れられたスピリッツは、さまざまな経路でアメリカに運び込まれ、ばれずに売るタイミングが来るまで、倉庫に積まれていました。
時には樽に入れたまま、洞窟に何年も積み上げられることもありました。
こうしてスピリッツは熟成し、木製のたるのエキスを含んだウイスキーへと、変貌していったのです。
現在ではモルトを蒸留したスピリッツを木製のたるに入れ、何年も熟成させて、ウイスキーを製造します。熟成期間に応じて、○○何年と言って販売されていますが、これは禁酒法の期間に偶然発見された製法なのです。
また、酒を提供するバーは、飲酒法の施行とともに一掃されましたが、密造酒を内緒で提供する闇バーば各地にでき、ひとびとはひそかにそこに通っていました。
これらの闇バーは、スピークイージーと呼ばれていました。
多くは会員制で、入店するのに合言葉を要求されました。
もっとも有名なのは、ニューヨークのマンハッタンにある「The 21 Club」通称 21 と呼ばれるスピークイージーでした。
ここでは安物の密造酒ではなく、オーナーの人脈を駆使して、カナダやヨーロッパ各国から密輸した、上質なワインやウィスキーが提供されていました。
セキュリティーも万全で、警察が踏み込んできてもボタン一つで、酒の棚が崩れ、すべての酒が下水道に流れる装置や、隣の家の地下にある倉庫につながる地下トンネルなどを装備していたといわれています。
この21は、現在でも営業を続けており、JFKや、エリザベス・テイラー、ソフィア・ローレンなども通っていたそうです。
アル・カポネの登場
この時代はまた、ギャングが幅を利かせた時代でもありました。
裏社会で酒を密造し、一般市民に売れば、莫大な財を成すことができるので、ギャングたちがこぞって密造酒の製造・販売に手を染めたのです。
これらのギャングたちは、いくつかの組織を作って成長し、裏の世界に強大な勢力を持つようになっていきました。
そのギャングのボスで、もっとも強力な組織と縄張りを持っていたのが、アル・カポネという人物です。
アメリカのギャングなんて知らないよ、という方でも、アル・カポネの名だけは、聞いたことがあるのではないでしょうか。
アル・カポネは、1899年1月17日、ニューヨークで生まれました。
その後、イタリアン・マフィアの幹部である、ジョニー・トーリオとであい、彼のもとで、皿洗いや給仕をやった後、彼に認められ、1920年、シカゴにわたりました。
彼は左の頬に傷があり、「スカー・フェイス」と呼ばれていました。
ここでアル・カポネは、頭角を現し、マフィアの組織の中で出世を遂げて、トーリオの共同経営者となります。
1925年、トーリオが暗殺されたのち、アルは彼の縄張りを譲られ、26歳にして、シカゴのマフィア組織に君臨することとなるのです。
アルは、対立組織をせん滅し、シカゴを完全支配したのち、禁酒法で操業を中止した醸造所を買い取り、大規模な密造酒の製造・販売を行って、莫大な利益を手にしました。
密造酒の販売が軌道に乗ってくると、全米各地のギャング組織はアルを中心に互いに団結し始め、弁護士、船長、醸造業者、トラック運転手などを雇い入れて、全国規模の酒造、酒の販売組織へと成長していきます。
彼らは賭博や売春にも手を染め、裏の世界を制圧していきました。
これまでDSが支配していた裏社会を、新興のギャングたちがのっとってしまったわけです。
酒を運び込め
その他、禁酒法下で発達した産業として、モータースポーツ産業と、自動車の整備、改造産業があります。
カナダやメキシコ国境に住む人たちは、車でカナダやメキシコに行き、酒を買い込んで自宅に持ち込めば、いくらでも酒を飲むことができました。
これが高じて、内陸部に住む人たちにカナダやメキシコから車で酒を運び、密売する、酒の運び屋たちが現れてきます。
これを後押ししたのが、1927年にフォード社から発売されたフォードA 型と呼ばれる車でした。
この車は高性能なうえに、小回りが利き、さらにはとても改造しやすくできており、この車にレース用のエンジンを積んで、警察のパトカーを振り切り、酒を顧客のもとに運ぶ、ということができるようになったのです。
通常の自動車修理工場の隠し扉の奥に、秘密の改造工場があり、そこでこの車に自作のエンジンやトランスミッションを取り付け、改造するものが現れ、伝説のメカニックと呼ばれる人物が登場するようになりました。
こうして改造された車は、普通のパトカーではとても追いつくことができず、カナダからの酒の持ち込みがどんどん増えていきました。
ちなみに、酒は、生卵の中身を抜いて、その中に詰めたり、水筒や樽に詰めたり、ホースに詰めたりして運び込まれていたようです。
到着時点で、卵のからを割ったり、酒をこぼしてしまうと、運び屋が買い取らなくてはならなかったので、運搬には細心の注意が必要とされました。
カナダから酒を満載し、雪道を走り、山を越えて、パトカーの追跡を振り切り、なおかつ酒を一滴もこぼさない、なんてことを毎日やっているうちに、
運び屋たちのドライビングテクニックは爆発的に向上し、ついには本職のレーサーを上回るようになってしまいました。
レースに転向する運び屋も現れました。
NASCAR レースで50回の優勝を果たし、伝説的レーサーと呼ばれる、ジュニア・ジョンソンは、長年運び屋を経験しており、レースにデビューした時点ですでに、どのレーサーよりも優れたドライビングテクニックを持っていたそうです。
実際彼はデビューの年に、いきなり5回の優勝を果たしています。
その後、レースと運び屋を兼務するものが多くあらわれ、
酒の運搬そのものも、どのドライバーが一番早いかの競争が行われるようになり、市民が一位のドライバーをあてる賭博も行われるようになりました。
現在のドライビングテクニックや、改造技術は、ほとんどがこの時代にできたものが基礎となっています。
また、運び屋たちの競争を仕切っていた組織が発展し、現在のNASCA (全米自動車競走協会)ができています。
現在のモータースポーツの源流は、酒の運び屋同士の競争にあった、というわけです。
禁酒法の崩壊
壮大な文明実験と言われた禁酒法でしたが、結局アメリカ国内の酒類の消費量は、禁酒法施行前を上回ってしまうこととなりました。
たしかに法自体が抜け穴の多いものではありましたが、上から押さえつけてもかえって反発を呼び、密造酒や、国外の酒の運搬が盛んになり、ギャングやスピークイージー、酒の運び屋をもうけさせるだけだった、というわけです。
1930年代に入ると、一般民衆の間でも、禁酒法廃止を叫ぶ意見が優勢となっていきました。
そしてついに、禁酒法の廃止を掲げて、大統領選挙に立候補する人物が現れました。
それが、フランクリン・ルーズベルト(FDR)です。
1932年のアメリカ大統領選挙は、共和党のハーバート・フーバーと、民主党のフランクリンルーズベルトの間で争われました。
大恐慌の中で緊縮財政をとり、アメリカ経済を崩壊させたフーバーに対し、ニューディール政策を引っ提げ、禁酒法の廃止を説いたルーズベルトが終始優位に立ち、
選挙結果は、ルーズベルトの圧勝に終わりました。
ルーズベルトは大統領就任直後の、1933年3月23日に、ボルステッド法改正法案に署名し、同年12月5日には憲法を改正し、禁酒法の根拠となった憲法修正18条は廃止され、禁酒法は終焉を迎えました。
禁酒法廃止直後から、アメリカ国内酒造産業が復活し、合法的に安く品質の高い酒が国内に流通することによって、密造酒と、それを創っていたギャングたちは一掃されていきました。
かくして壮大なる文明実験は、完全に失敗のうちに、幕を閉じることとなったのです。
DSにとっても、これは手痛い失敗でした。
ワクチンの浄化作用を持つ酒を駆逐し、次のパンデミックで効果的に人口削減を行おうという企画でしたが、
結局人々の飲酒の習慣を止めることはできませんでした。
そればかりか、それまでDSが独占していた裏社会の経済を、新興のギャングたちに食い荒らされ、酒類の利権をも持っていかれるという失態を犯してしまったのです。
あわてたDSは、ルーズベルトに政権を取らせることで禁酒法を葬り去り、何とか食い荒らされた利権を取り戻すことができました。
しかし、DSも、ただでは転びませんでした。
1920年当時のアメリカは、自動車や各種機械の動力は、ガソリンや重油などの石油系と、トウモロコシなどの穀物から作る燃料用アルコールに2分されていました。
ここで禁酒法を施行することにより、酒の原料となりうる燃料用アルコールの製造が禁止され、アルコール燃料産業が壊滅しました。
結局、自動車やその他機械の燃料は、石油一択となり、石油の輸送を支配したロックフェラーが、この分野を完全に独占することとなりました。
その後1971年以降は、世界中の石油の代金決済をドルのみとするペトロダラーシステムが完成し、DSによる石油-金融支配が完成することとなったのです。
コロナ下の飲酒規制
というわけで、100年後の2020年に演出された、新型コロナパンデミックでは、DSは、酒がワクチンの浄化能力を持っていることを知りながら、これを全面禁止することはできませんでした。
日本でも、一時期、酒類の提供を20時までに制限する政策がとられましたが、現在では完全に解除されています。
この背景には、1920年からの、アメリカ禁酒法の失敗が、影響を及ぼしているのです。