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真実の日本近代史3 織田信長は、人身売買に手を染めていた!? 「天下布武」に隠された真実の歴史とは?

天下統一への道

 織田信長は、1534年、尾張で生まれました。

 

 当時の尾張の国は、多数の勢力に分かれていたのですが、信長は、隣国美濃の大名、斎藤道三の娘濃姫をめとり、その力を背景に尾張を統一します。

 

 1560年、桶狭間の戦いで今川義元を破り、とらえられていた徳川家康を救出して、同盟を組みます。

 

 おなじころ、美濃で、恩人の斎藤道三が、息子の義龍に打ち取られるという事件が発生し、信長は美濃に出兵します。

 

 美濃攻めは難航しますが、61年、義龍が急死し、息子の龍興が家督を継ぎ、信長は龍興を攻め滅ぼして美濃を占領し、中心都市井ノ口を岐阜と改名して、本拠地としました。

 

 1565年、三好氏によって、14代将軍足利義輝が殺害されます(永禄の変)。家臣によって将軍が殺害されてしまうほど、足利幕府の力は衰えていたわけdす。

 

 身の危険を感じた息子の義明は、越前に逃亡していましたが、1568年、信長軍とともに上洛し、15代将軍に即位します。

 

 その後、妹お市をめとらせ信頼していた浅井長政に裏切られたり、足利義明を追放したり、比叡山を焼き討ちしたり、安土城を建立したり、紆余曲折を経て、

 

1570年代半ばには、信長は、近畿地方と、北陸地方の一部、尾張と、三河(家康領)を支配する、一大勢力に成長します。

 

ちなみに、浅井長政は攻め落とされ切腹しますが、絶世の美女として知られた、妹のお市と、その3人の娘たちは、落城寸前の城から脱出して保護され、

 

その後さまざまな権力者のもとを、渡り歩くこととなります。

 

一方毛利元就のほうは、はじめは安芸の国(広島)の一武将にすぎませんでした。

 

周りには、九州を本拠地として、山陽地方をも傘下に収める大内氏や、山陰地方に大勢力を築いた尼子氏などの有力大名がひしめいていました。

 

元就は、武略によって、安芸の国を統一しましたが、隣接する安芸高田氏が5000の軍勢で攻め込んできます。これを元就は、わずか1200人の兵で撃退しました(有田中井出の戦い)。

 

これは信長の桶狭間の戦いに匹敵する大勝利と言われ、元就の名は一気に高まります。

 

1551年には、厳島の戦いで、大内氏に勝利し、大内氏を中国地方から追い出し、長門、周防をその手に納めます。

 

その後、兵糧攻めや心理戦を駆使して、尼子氏を滅ぼし、二人の息子を養子に出した先の領土を併合するなど、戦略を駆使して、ついには中国地方8か国を制覇する大大名となりました。

 

「三本の矢」や、「百万一心」の逸話などが有名ですね。

 

元就自身は1571年に死去しましたが、後を継いだ輝元がさらに領土を拡大し、1570年代半ばには、信長の領土とほぼ接するところまで制圧します。

 

下の地図を見てください。

 

 

 

 

毛利は書いてませんが、織田領のすぐ西まで来ています。

 

戦国時代は、この状態でいったん膠着状態となります。

 

織田・徳川同盟は、西は毛利、東は上杉・武田と接しています。

 

この3勢力は、今までの敵とはレベルが違います。

 

さすがの信長でも、軍勢を東西に二分して、彼らと同時に戦うことはできません。

 

また毛利に攻め込めば、背後から上杉・武田が、上杉・武田に攻め込めば、背後から毛利が攻め込んでくるのがわかっていたので、身動き取れなくなってしまったのです。

 

これまで雑魚敵を制圧して領土を拡大したが、ボス戦を前にして、一時小休止というところです。

 

毛利は毛利で、西には西欧諸国の武器で武装した、DSアイランド九州が控え、東には織田が控えています。

 

これも信長と同じで、毛利からは手が出せない状態となっているわけです。

 

上杉・武田の動向

では、信長良の東をふさぐ、越後の上杉謙信と、甲斐・信濃の武田信玄は、どうしていたのでしょうか?

 

この両者の領土は、戦国時代のはじめからほとんど変わっていません。

 

2人は、天下を取りに行くわけでもなく、領地を拡大するわけでもなく、ひたすらお互い戦い続けていたのです。

 

この2人の戦いは、「川中島の戦い」と呼ばれ、1553年から1564年にかけて12年にわたり、実に5回の戦闘が行われましたが、勝負はつきませんでした。

 

戦いの理由は些細なものでしたが、謙信と信玄は、お互いの強さを認め、全力を尽くした戦いをひたすら楽しんでいたと思われます。

 

謙信はおそらくわが国歴代最強とよばれる戦闘力を持った、軍神と称される武将で、信玄も、それに匹敵する軍事的才能を持った、軍神でした。

 

軍神と呼ばれる将軍は、世界史上何人か登場しますが、彼らは大体周りに強敵がいません。領土拡張の楽しみはあるのですが、敵が弱すぎて、戦闘自体はだんだん面白くなくなっていきます。

 

しかしこの時、2人の軍神が同時代に生まれ、お互い領地を接していたのです。

 

両者とも、もちろん自分の強さは自覚していますが、自分と同じ強さを持った敵がすぐ隣にいると知って、驚喜したことでしょう。

 

2人は、他の武将にはわき目も降らず、おたがい、相手とのがっぷり四つの戦いを楽しんでいたということです。

 

謙信に関しては、戦場に塩を持ってき忘れた信玄に、塩を送った逸話が残されています。

 

これは謙信の、分け隔てない高潔な人格を表している、なんて言われていますが、全然違います。

 

「おい、そんな凡ミスで、撤退なんかしたら承知しないぞ。俺が代わりに塩を送っていやるから、さっさと態勢を整えて、また全力の戦いを楽しもうぜ」というわけです。

 

武田軍の信長領侵攻

 こうしてひたすら戦いを楽しんでいた謙信と信玄でしたが、気が付くとすぐ西に、目障りな奴らが迫っていました。織田信長です。

 

 信長は天下統一を公言し、周りの大名を次々と併呑し、ついに謙信、信玄と領地を接するようになっていたのです。

 

 「なんだこいつ、本当に強いのか?俺らの楽しい戦いを邪魔するんだったら容赦しないぞ。いったん絞めといてやろうか」と、2人は思ったことでしょう。

 

 それまで大義名分がなかったので、ようすを見ていた謙信と信玄でしたが、ついに侵攻できる機会がやってきました。

 

 1572年、信長と、いうことを聞かなくなった15代将軍足利義昭との対立は、臨界点を生むかえます。

 

ここで義昭は、ついに諸国の武将に信長討伐令を発令します。

 

 これにこたえる形で、ついに甲斐の武田信玄が、信長領に侵攻を開始します。信玄にとっては渡りに船といったところだったでしょう。

 

 信玄は、まずは三河・駿河の家康領を落とし、信長領に攻め込みます。

 

 軍事的才能が根本的に違うので、全然勝負になりません。

 

 信玄は家康領の諸城を一日で全部落としてしまい、一言坂の戦いで家康本隊を撃破し、三方ヶ原の戦いで、信長の援軍を一蹴します。

 

 こりゃだめだ、信長は滅びたな、と誰もが思ったことでしょう。

 

 しかし、なんとこのタイミングで、信玄が急死してしまい、武田軍は信長領から撤退します。

 

 まったくなんという強運でしょうか。

 

 さっそく信長は、信玄侵攻の原因となった足利義昭を京から追放しました。

 

 義昭は、河内を経由して、広島の毛利輝元のもとに逃げ込み、対信長工作を細々と続けていくことになります。

 

 しかし、信長の苦難はまだまだ続きます。

 

 1574年には、信玄の家督を継いだ武田勝頼が、父譲りの武田騎馬軍団を率いて、信長領東美濃に侵攻します。

 

 信長軍はこれを3万の軍で迎撃しますが、ぼろ負けし、撤退を余儀なくされてしまうのです。

 

 武田騎馬軍団はこのまま家康領の遠江に侵攻し、遠江をほぼ平定、浜松城の城下に火を放ちます。

 

 このときも、人びとはみな、やっぱり織田は滅亡するな、と思ったのですが・・・。

 

長篠鉄砲隊の謎

 結論から言うと、翌1575年、織田軍は武田勝頼率いる騎馬軍団を、長篠で迎え撃ちます。

 

 このとき織田軍は、3000丁の鉄砲を用い、馬防柵を築いて、柵越しに1000人の鉄砲隊を3列交代で一斉掃射させ、武田騎馬軍団を壊滅させています(長篠の戦い)。

 

 あれれ、3000丁の鉄砲? 半年前にはそんなもの影も形もありませんでしたよね? どこから3000丁もの鉄砲を持ってきたのでしょうか。

 

 また3000丁の鉄砲を買う、国家予算レベルのお金は、どうやって用意したのでしょうか?

 

 財政が火の車だった織田軍が、どうやってそんなお金を工面したのでしょうか?

 

 このとき信長は、ついに超えてはいけない一線を、超えてしまったようです。

 

 信長は、堺の商人経由で西欧諸国から3000丁の鉄砲を購入し、長篠の勝利を獲得しました。

 

 その原資となったのは、同じく堺経由で西欧諸国に、織田領内の女性や子供を奴隷として売り渡した資金です。

 

 信長は、武田軍の侵入による自らの滅亡の恐怖と、彼らを倒す力への渇望により、西欧諸国の提案を受け入れ、アドレノクロム、悪魔教に手を出し、人身売買に手を染めてしまったのです。典型的な闇落ちスタイルですね。

 

 DSローマの魔の手は、九州を制圧し、本州各地へと伸びていました。

 

 ここでついにDSローマの魔の手は、堺を制圧し、信長を取り込み、信長を通じて近畿や東海、北陸にまで、伸びていくようになったのです。

 

織田家家臣分裂の開始

 この後、織田軍は鉄砲隊を全面的に導入し、各地へ侵攻していくようになります。

 

 織田家家臣のなかでは、新兵器鉄砲の威力に酔いしれ、自ら信長の人身売買の実行部隊を務めたばかりか、自領において子女狩りを行い、人身売買を積極的に進めるものが増えていきました。

 

 柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、前田利家、佐久間盛政、佐々成正、そして徳川家康たちです。

 

 これに対して、ごくわずかですが、このような行為を嫌悪し、信長に中止を請願する両親派の家臣たちも存在していました。

 

 明智光秀、蒲生氏郷、細川忠興などがそうです。

 

 特に明智光秀は、実務型だったので、初期のころに信長に人身売買の実行部隊を命じられ、それを断固拒否した時から、人身売買反対派の巨頭となっていました。

 

 光秀は機会を見ては何度も信長に人身売買の中止を勧告しており、いい加減信長も、うっとおしく感じるようになっていました。

 

 ちなみに秀吉は、このころは木下藤吉郎から羽柴秀吉に改名したばかりで、織田家家臣団の中では、新参者であり、機転が利くかわいい後輩のポジションでした。

 

 1573年の浅井長政攻めで功績をあげ、今浜城をもらって長浜と改名し、やっと一国一城の主になったばかりです。

 

 この時の秀吉は、おそらくこのような織田家の内部事情は知らなかったと思われます。

 

 羽柴に改名する時に、「尊敬する丹羽長秀様と柴田勝家様から一字ずついただきました」なんて、人身売買派の2大巨頭を賛美していますので、本当に何の情報も入っていなかったことがわかります。

 

本願寺とのたたかい

 1575年の時点で、織田軍の主な敵は3つに絞られていました。

 

 一つは東の上杉・武田軍、もう一つは西の毛利軍、あとは越前を占拠し、大阪など信長領各地に点在する宗教勢力です。

 

 当時の寺社は、自領を持ち多数の僧兵を抱える軍事勢力で、これが結構馬鹿にならない勢力を誇っていたのです。

 

 武田軍は、信玄が死んで勝頼の代になって大幅に弱体化しました。今の信長軍なら十分勝てるのですが、もちろんそれを自覚している武田勝頼は、越後の上杉謙信と同盟を組みました。

 

 これはつまり、武田領に進軍すれば、上杉謙信が出陣してくるということです。さすがにこれはめんどうなので、武田・上杉攻めは後回しとなりました。

 

 毛利軍の強さは未知数でしたが、一代で中国地方を制覇した実力は侮りがたいので、こちらも後回しにして、まずは領内及び越前の寺社勢力を一掃しようということになりました。

 

 越前の国は一向一揆勢の勢力範囲となっていました。信長はここに柴田勝家、佐々成正を主力とする兵を差し向け平定し、一揆勢を皆殺しにしました。

 

 越前は柴田勝家領となり、家臣に前田利家、佐々成正らをつけて統治させました。

 

 翌1576年、最大の寺社勢力である、本願寺が信長に対して挙兵しました。

 

 本願寺の本拠地は、大阪の石山本願寺です。ここは淀川の河口に作られた大要塞で、のちの大阪城の場所にあります。

 

 信長は塙直正、明智光秀らに本願寺攻略を命じます。しかし本願寺は、同盟を組んでいる紀州の雑賀衆と呼ばれる忍者軍団に守られており、

 

 織田軍は強力な反撃を受けて、総大将の塙直正が戦死してしまいます。天王寺砦に逃げ込んだ光秀は、雑賀衆に囲まれ、危機に陥りますが、

 

 信長自身が軍を率いて救援し、事なきを得ます。信長はこの戦いで矢を受け、負傷しています。

 

 この後、織田軍は、佐久間信盛を総大将とし、水陸から石山本願寺を完全に包囲し、兵糧攻めの態勢に入ります。

 

 しかし、本願寺と同盟を結んでいた毛利が、800隻もの毛利水軍を大阪に派遣し、織田水軍は敗れ、海上経由で石山本願寺に補給物資が運び込まれてしまいます。

 

 ここでついに、織田ー毛利間に戦端が開かれることとなりました。

 

 信長は明智光秀を西部方面に派遣し、毛利領への侵攻を命じます。

 

 毛利は、稀代の英雄、毛利元就が1571年に死去し、2代目毛利輝元の時代になっていましたが、中国地方全土を統一した毛利軍はやはり強く、

 

光秀は、丹波、但馬(現在の兵庫県東部)までは侵攻しましたが、そこから先に進むことはできず、西部戦線は膠着状態に陥ります。

 

 本願寺に関しては、雑賀衆と毛利水軍を何とかしないと、永遠に落ちないということがわかりました。水軍の補強は時間がかかるので、先に雑賀衆の本国、紀伊の国を攻めようということになりました。

 

 1577年2月、信長は10万の大軍を率いて自ら紀伊の国に攻め込みます。紀伊の国自体は1か月で滅ぼしたのですが、雑賀衆はしぶとく粘ります。

 

 信長は雑賀衆の統領、鈴木孫一に服属を誓わせますが、倒しきることはできず、軍を引き上げることになります。

 

秀吉の決意

 さて、人身売買の資金で鉄砲を大量購入し、大幅に強化された織田軍は、ついに上杉領の北陸への侵攻を開始します。

 

 1577年8月、柴田勝家を総大将とし、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成正などの人身売買派の家臣たちに、率いられた4万の軍勢が、加賀の国に向けて侵攻を開始します。

 

 信長は、この軍勢に、新進気鋭の武将、羽柴秀吉を、援護に向かわせます。柴田勝家たちだけではちょっと不安、ということでしょう。

 

 しかし、秀吉は、信長の許可なく、途中で陣を離れ、帰還してしまうのです。

 

 仕方なく、柴田軍は秀吉なしで、上杉領へと侵攻します。

 

 領土的野心もなく、権威や地位や、ましてや天下統一など全く興味のない、上杉謙信は、信玄の死後、戦いを楽しめる強敵もいなくなってしまったので、おとなしく隠居生活を送っていました。

 

 しかし、相手側から攻めてくれば話は別です。

 

 謙信は、8000の軍を率いて、織田軍を迎え撃ちます。

 

 手取川を超えたあたりで、織田軍は謙信軍とぶつかりましたが、ぼこぼこにやられ、壊滅状態となり、背後の手取川を渡って逃げようとした織田軍は、増水した手取川で多数の溺死者を出す、大惨敗を喫しました。

 

 鉄砲で武装し、5倍の兵力があったとしても、軍神上杉謙信には手も足も出なかったというわけです。

 

この後、織田軍の東部方面への侵攻は当分取りやめとなります。

 

謙信はとんでもない強さですが、高齢なのでそのうち寿命が尽きるだろう、謙信が死ぬのを待って、進攻しよう、ということです。

 

 帰還した秀吉は、主君信長から、離陣の罪を激しく叱責されます。

 

 しかし秀吉は、信長の叱責をものともせず、聞き流しました。

 

 彼はこの時、ついに知ってしまったのです。

 

 信長が人身売買に手を染めていること、織田家の家臣たちがその実行部隊となっていること、柴田勝家が実行部隊の元締めであることをです。

 

 織田軍が危険にさらされようが、信長の叱責を受けようが、秀吉は、人身売買とそれによる軍の強化を受け入れることができなかったのです。

 

 秀吉はこのとき、はっきりと決意しました。

 

 織田家の人身売買を止めさせること。他の武将の奴隷貿易も自分が止めること。

この日本から南蛮人を、キリスト教徒をすべて追い出すことを。

 

 そして秀吉のこの決意は、これ以降生涯揺らぐことはなかったのです。

 

 光秀を中心とする人身売買反対派は、秀吉という巨大戦力を味方にすることができました。

 

 光秀と秀吉は、この時から盟友となっています。

 

 そして秀吉の加入によって勢力が増強された人身売買反対派と、柴田勝家を中心とする人身売買推進派の家臣団は、織田家内ではげしい対立を演じることとなるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

甲州征伐

 翌1578年、上杉謙信が死亡し、養子の上杉景勝が家督を継ぎます。これで信長はほっと一安心し、本格的な甲斐、越後侵攻を決意します。

 

 1580年、信長の勢力伸長を見た相模の北条氏康が、信長に恭順の意志を示し、織田家の傘下に入ります。

 

 1582年、信長は、ついに甲斐の武田勝頼に向けて、侵攻を開始します。

 

織田信忠を総大将とし、軍艦に滝川一益、これに徳川家康と北条氏康の援軍を加えた、総勢10万の軍勢が、勝頼領になだれ込みます。

 

 信長軍は、一か月余りで甲斐の国の本拠地、甲府を陥落させ、勝頼は自刃、ここに武田家は滅亡を迎えます。

 

 また、柴田勝家を総大将とする4万の軍を越前に向かわせ、上杉領越前をほぼ制圧することに成功します。父謙信はとんでもない強さでどうにもなりませんでしたが、息子であれば、何とかなるということです。

 

 

 

 

 

 

 1582年、織田軍は、人身売買で手に入れた資金でさらなる鉄砲を購入し、遂に甲斐の武田領に進軍を開始しました。