笹原シュン☆これ今、旬!!

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日米経済戦争9 バブルを境に、国民生活は一変した!? 史上最大のショックドクトリンの効果とは?

バブル崩壊による国民生活の変化

 バブル崩壊による経済システムの激変に伴い、国民生活も大きな変化を遂げました。

 

 逆に言うと、国民生活をDSの望む形に変化させるために、バブル崩壊が計画されたといったほうがいいかもしれません。

 

 ここでは、バブル崩壊によって生じた国民生活の変化を、消費行動の変化、働き方の変化、家族制度の変化、の3つに分けて、解説していきたいと思います。

 

消費行動の変化

 バブル崩壊後の消費行動における最大の変化は、ぜいたく品が全く売れなくなった、ということです。

 

 ぜいたく品といっても、土地、建物から、車、高級な衣類などの生活に使用するものから、絵画、美術品、ゴルフ場の会員権、テーマパークやスタジアムの年間パスなどまで含まれます。

 

 企業においても、バブル以前は経費をどんどん使え、と言われていたのが、経費の引き締めに転じ、タクシーが使えなくなったり、飲み会が自費になったり、企業の厚生施設が次々に売却されて使えなくなったりしていきました。

 

 それまで個人でぜいたく品を買っていたのは、たいていバブル時代の土地、株式投資で儲けた人たちでした。

 

 このひとたちが、バブルが崩壊して莫大な借金を抱えてしまい、収入のほぼすべてを銀行への返済に回さざるを得なくなって、ぜいたく品を買い込む余力がなくなってしまったというわけです。

 

 また、小売り分野における人々の消費行動にも大きな変化が見られました。

 

 それまでは大量生産、大量消費で、同じものを大量に製造し、テレビのCMで宣伝して、みんなが同じものを一斉に買うシステムでした。

 

 百貨店やスーパーで並べられたものは飛ぶように売れ、作れば作っただけ売れるという、企業としてはとても楽な世界でした。

 

 しかし、バブルの崩壊によって、財布のひもを締めた人々は、そう簡単には物を買わなくなりました。

 

 大量に生産した商品は売れ残り、百貨店やスーパーの売り上げは落ちて、倒産するところや、吸収合併されるところが相次ぎました。

 

 コンビニエンスストアという小売形態が流行りだしたのも、ちょうどこのころです。

 

 ひとびとは、みんなと同じものを一斉に買うのではなく、自分の好みに合ったものを、少しずつ買うようになったのです。

 

 この傾向に拍車をかけたのは、93年ごろから普及した携帯電話と、95年から一般的になったインターネットでした。

 

 というか、90年代前半までは、携帯やネットが存在しなかった、という事実のほうに、驚かれるかもしれません。

 

 今では当然全員が持っているこれらのアイテムが、なかった世界を想像するほうが困難なのかもしれません。

 

 90年代前半までは、毎年「流行の衣服」というものが存在していました。

 

 といっても、衣服を製造するのは半年程度の期間を必要とします。

 

 あらかじめ来年はパンタロンをはやらせよう、と決めておき、雑誌などで「この春はパンタロン!」などど特集を組み、テレビで宣伝して、流行が始まります。

 

 パンタロンは飛ぶように売れていきます。もちろんこの時売れたパンタロンは、流行の始まる半年前に、大量に生産されていたのです。

 

 しかし、インターネットが一般化し、大量消費社会が崩れた後は、このような手法で、「流行の衣服」を作ることが困難になりました。

 

 テレビや雑誌で流行を作り出し、大量に売りさばくビジネスモデルは、ここに終焉を迎えることとなったのです。

 

働き方の変化

 バブルの崩壊によって、もたらされた国民生活の変化の中で、なんといっても最大のものは、働きかたの変化でしょう。

 

 それまでの日本では、生産年齢の国民の97%が、何らかの職業を持って働いていました。

 

 農業などの一次産業、個人商店などの個人事業主もかなりいましたが、なんといっても多いのが、「会社員」という職業でした。

 

 当時の日本の企業は、ほぼすべての従業員を正社員として採用しており、企業内で厚生年金、企業の健康保険組合の運営する健康保険、雇用保険が完備しており、様々な福利厚生を行っていました。

 

 男性は高校もしくは大学卒業後に、新卒で一括採用され、60歳の定年まで、ずっと正社員として一つの企業で働き続けるのが一般的でした。

 

 女性は企業に一般事務職として入社し、社員の男性の一人と結婚して家庭に入るのが一般的でした。

 

 男性は朝から晩まで会社で働き、女性は家庭に残って家事及び子育てを行うという、男女の役割の分担が出来上がっていました。

 

 しかしバブルの崩壊によって、企業は大きな負債をしょい込むことになりました。

 

 バブル期には大抵の企業が、不動産や株に投資していましたので、それらが値下がりした後に、銀行からの借入金がそのまま残ってしまったのです。

 

 企業の利益はほとんど銀行への返済に消えてしまい、新規投資を行う余力のある企業はほとんどありませんでした。

 

 先行きが不透明な中で、企業がまず考えることは、従業員を解雇して、人件費を減らし、身軽にすることです。

 

 アメリカの企業だったら、このタイミングで社員の半数を解雇し、人件費を一気に減らしていたでしょう。

 

 しかし、日本の企業には、この手段は封じられていました。

 

 そもそも日本の労働法は、社員の解雇についてはあいまいな規定しかなかったのですが、1976年のある労働争議で、最高裁の判決が出て、会社は社員を、だれが見てもわかる合理的な理由がない限り解雇できない、ということになっていました。

 

 日本は労働組合の力が強く、経営陣が社員に一方的に命令することができない企業風土が出来上がっていたわけです。

 

 かといって、いきなり長年続いた新卒一括採用、終身雇用システムを変更するわけにもいきません。

 

 ここで企業のとった選択肢は、新卒の採用数を絞る、というものでした。

 

 すぐに社員の数を減らすのは無理ですが、採用数を大幅に減らせば、毎年定年退職する社員の分だけ社員は減っていきます。

 

 こんな形でほとんどの企業は、事実上のリストラを、ゆっくり行っていこうとしたのです。

 

 この方式のあおりを食らったのは、高校や大学を卒業した新卒の若者たちです。

 

 一生懸命受験戦争に勝ち抜いて、いざ卒業して就職しようとしたときに、とってくれる企業はどこにもなかったというわけです。

 

 当時の新卒学生は、100社面接して一社も内定しない、なんていう人がざらにいました。

 

 この状態はバブル崩壊からちょっと経った93年から、2004年まで続きました。

 

 この期間は、現在では「就職氷河期」と呼ばれています。

 

 

 さて、就職氷河期で、就職しようにもできなかった新卒学生たちは、その後どのような道をたどったのでしょうか。

 

 なかには翌年も企業の就職面接に行った学生もいましたが、結果は同じようなものでした。

 

 企業の正社員として雇ってもらえる見込みがないと考えた学生たちは、多くはアルバイトをして食つなぐこととなりました。

 

 それとともに、この時期から急速に数が増えてきた職種は、派遣社員です。

 

 人材派遣会社に登録して、派遣会社から各企業に派遣されて、そこで働くというスタイルです。

 

 この背景には、1985年に制定され、翌年から施行された「労働者派遣法」がありました。

 

 制定当時には見向きもされなかった法律が、ここにきて力を持ってきたというわけです。もちろんDSにとっては予定通りです。

 

 人材派遣は最初のころは極めて限られた分野のみでしたが、製造業への派遣が解禁され、各種のサービス業への派遣が解禁され、次第に派遣される範囲が増えていきました。

 

 派遣される人材は、企業にとっては正社員よりも割高ですが、いつでも契約を打ち切れる、貴重な人材でした。

 

 正社員として採用してしまうと解雇できませんが、派遣社員ならいつでも首を切れるというわけです。

 

 派遣される側からみると、派遣社員は、企業内で働くアルバイトです。給料は安く、福利厚生もなく、責任ある仕事を任せてもらえず、社員の命令で動く下請け要員といった感じです。

 

 大儲けしたのは派遣会社です。派遣会社は企業からは正社員よりも多くの派遣料をもらっていますが、派遣社員に支払われるのはごくわずかです。

 

 たとえば企業は、正社員が月給40万のところを、派遣会社に60万払い、派遣会社は派遣社員に17万円渡します。

 

 差し引き43万円が、派遣会社の懐に入る、というわけです。

  

 派遣社員は、女性の比率が多いのも特徴です。

 

 バブル崩壊で正社員として就職できなかった若者たちは、経済的安定を得られず、なかなか結婚できない人が増え始めました。

 

 本来20代前半で結婚して家庭に入るはずの女性たちが、結婚せずにそのまま派遣社員として働き続ける、というパターンが増えてきたのです。

 

 今まで、会社内ではほとんどが男性社員で、女性は結婚前の若い事務職だけ、というパターンだったのが、年配の女性の派遣社員を多く見かけるようになってきました。

 

 これには、1986年に制定された「男女雇用機会均等法」が、大きな役割を果たしています。すべてDSの計画通りです。

 

家族制度の変化

  我が国における家族制度は、1960年代初頭に、一度大きな変化を遂げていました。

 

 それまでは、一軒家に、夫婦+子供たち+祖父母夫婦で暮らす大家族が主流でしたが、高度経済成長のさなかの60年代に、夫婦+子供が都市部のマンションで暮らすスタイルが主流となりました。

 

 子供の数も、6~8人いたのが、2~3人になりました。

 

 80年代のバブル期には、一つの世帯は、夫婦+子供2人の4人家族が標準となっていました。

 

 この大家族から4人家族への変化は、「核家族化」と呼ばれました。

 

 バブル崩壊は、この核家族のスタイルに、大きな打撃をもたらしました。

 

 正社員の割合が減って、派遣社員や、パートアルバイトが増えてくると、これまでのように男性一人が働いて、4人家族を養う収入が得られなくなってきたのです。

 

 収入を補うために、妻が派遣社員、もしくはパート・アルバイトで働く、共働き家庭が増えていきました。

 

 テレビでは連日、会社で働きながら、家事をこなし、子育てを行うスーパーウーマンのドラマが放映され、仕事と育児の両立がもてはやされましたが・・・。

 

 実際には仕事と育児はほぼ同等の気力・体力を消耗するタスクであり、現実にこの2つを両方こなせる女性はほとんどいませんでした。

 

 結果として、家事・育児を放棄して家庭が崩壊してしまったり、そもそも仕事に追われて、子供を作らないという選択をする女性が急増しました。

 

 90年代前半には、DINKS(Dobble income no kids)、すなわち共働きで子供がいない夫婦2人だけの家庭がもてはやされました。

 

 また、正社員として就職できず、派遣社員やアルバイトとしてとりあえず働いてみたものの、その後そのまま30歳過ぎてもアルバイトのまま、という男性が続出しました。

 

 このような男性は、多くの場合、結婚して家庭を持つことができず、そのまま独身を貫くことになりました。当然子供はできません。

 

 結果としてもたらされたのは、大幅な出生率の低下です。

 

 

 

 合計特殊出生率(女性が生涯に産む子供の数)は、どんどん下がり続け、2000年代前半にはとうとう1.3を割り込むところまで下がっていきました。

 

 人口を維持できる出生率である、2.1を大きく割り込む時期が長く続き、日本の人口は将来的に減少することが確定してしまったわけです。

 

 これには、子供をたくさん産むことが期待されていた、第2次ベビーブーム(71~74年)に生まれた若者たちが、ちょうどバブル崩壊後の就職氷河期に重なってしまい、子供を作れなかったことも、大きく影響しています。

 

バブル崩壊の真実

 ここにあげたような変化は、DSにとっては、すでに予定されていた現象です。

 

 80年代の日本は、すでに述べたように、国民のほとんどが同じ所得で、貧乏な人が一人もおらず、人と人とが助け合う地域社会が成立した、ある意味で理想郷のような国でした。

 

 これを、他の西欧諸国と同じような、国民同士が争い、貧富の差が激しく、国民の大半が貧乏にあえぎ、国民が孤独に苦しむ国に変えるためにはどうすればいいか。

 

 そのための仕掛けはすでにDSによって、セッティングが終わっていました。

 

 消費税を導入し、男女雇用機会均等法や労働者派遣法を制定し、核家族化を推進し、男女間を仲たがいさせ、子供の数を減らす政策を推進して、マスコミで連日プロバガンダを行っていました。

 

 しかし、日本人はこれらを無視し、なかなか思うとおりに貧乏になってくれませんでした。

 

 それならどうするか?

 

 その答えが、バブルの崩壊という、ショックを与えることでした。

 

 バブルの崩壊によって、日本人は自信を失い、未来への恐怖におびえ、まんまとDSの仕掛けた罠にはまっていったというわけです。

 

 ついでに、DSに対抗しうる力を備えた日本人を、減少させ、あわよくば日本人全体をこの地上から抹消しよう、という、遠大な計画の始まりが、バブルの崩壊という事件だったのです。