笹原シュン☆これ今、旬!!

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日米経済戦争8 失われた30年はここから始まる!? バブル崩壊の真実とは?

バブル崩壊の始まり

 1985年のプラザ合意の直後からはじまったバブル景気は、89年に最高潮を迎えます。

 

 東京23区の地価は、以前の7倍に到達し、株価も、1989年12月29日の年末大納会の時点で、日経平均株価38916円という、過去最高の価格に到達します。

 

 しかし、年明け1990年早々、さっそく株価の崩壊が始まりました。

 

 株価は90年3月まで、ほぼ真っ逆さまに30%程度下落し、4~5月で一時持ち直したものの、またもや崩壊し、9月30日には20222円をつけます。

 

 

 9か月間で、株価は48%下落、実に半額になってしまったわけです。

 

 また不動産価格も、ひと足遅れて下落が始まりました。

 

 東京・大阪の大都市圏では90年の10月から地価の崩壊が始まり、翌91年7月には、全国規模の大崩壊となりました。

 

 

 地価の下落は93年12月まで続き、東京23区の地価は、実に98年の6分の1の価格にまで下落していきました。

 

 土地や不動産に投資していた人たちの阿鼻叫喚の叫びをよそに、一般の国民は、バブルの最後の輝きに身を投じていました。

 

 

 

 東京・芝浦のディスコ「ジュリアナ東京」では、株価と地価の崩壊をよそに、連日ワンレングス(ワンレン)と呼ばれる髪型に、ボディコンシャス(ボディコン)と呼ばれる服を着た女性たちがお立ち台にのぼり、扇子を振って、踊り続ける姿が見られました。 

 

バブル崩壊の背景

 このような事態に陥った背景として、当時の日本の国民感情と世論の流れがありました。

 

 バブルの真っ最中、うまく土地や株式に投資して値上がりした人たちは、濡れ手に粟で何億もの資金を手にし、そうでない人たちは、通常通りの給料で生活していました。

 

 それまで日本は一億総中流社会と呼ばれ、ほとんどの国民の年収が500万から1000万の間に収まるという、世界でもまれにみる均等な社会が実現していました。

 

 バブルによってはじめて、国民の間に資産格差が出現したため、資産を持たないものが持つ者に対して嫉妬心を抱く状況が現出したのです。

 

 あいつはこないだまで俺と同じ給料だったのに、土地で何億も儲けている、許せん、といって、バブルで儲けた人たちを、非難し始めたというわけです。

 

 また、団塊の世代と呼ばれる、極端に人口の多い世代が、このころちょうど30代前半に差し掛かっていました。

 

 当時の日本の生活スタイルでは、30代前半にマイホームを持つというのが主流でした。

 

 団塊の世代の人たちは、「俺たちがマイホームを持とうとしたのに、土地が値上がりしてとてもじゃないが手が出ない、どうしてくれるんだ!」と叫び、バブル景気を何とかしろ、と声を上げていたのです。

 

 これらの背景のもとで、88年ごろから、国民の間に「バブルをつぶせ」という声が上がり始めていました。

 

 もちろん、これには、マスコミによるバブルつぶしの大合唱が、大きな役割を果たしたのは言うまでもありません。

 

 この世論を背景に、当時の日本銀行総裁の三重野康は、つぎつぎとバブルつぶしを目的とする金融政策を実行していきました。

 

 1989年5月から、当時の経済指標だった公定歩合、日銀が他の銀行に貸し出す際の金利、は1年3か月の間に実に5回の利上げが行われました。

 

 89年には2.5%だった金利が、1年で6%に上昇するという、急激な利上げです。

 

 これはあくまで日銀が銀行に貸し出す際の金利で、市中銀行がローンを組む際の金利はさらに高く、90年初めの時点で不動産ローンの金利は、じつに13%にも達していました。

 

 これに合わせて、政府は地価税の創設をはじめとする、土地関連税制の大幅強化を行い、国土利用計画法(国土法)を制定して、土地の価格の上限を設定し、土地取引を届け出制にしました。

 

 届けられた取引について、土地価格や、ローンの金額・金利などを、政府が監視するようになったわけです。

 

 これらのバブルつぶしの諸政策によって、まずは株価が反応し、90年初頭からの株価の暴落が始まったのです。

 

 しかし土地価格は依然として安定し、国民は土地はしばらく大丈夫かな、と思っていました。

 

 この状態をぶち壊し、地価崩壊に決定的な役割を果たしたのが、90年3月に、大蔵省(当時)銀行局長土田正顕の名前で出された「土地関連融資の抑制について」という通達です。

 

 これは通称「不動産融資の総量規制」と呼ばれています。

 

 銀行は不動産価格の8割までしか融資をしてはいけない、という通達です。

 

 バブル時代の銀行融資はガバガバで、たとえば企業が1億円の土地を取得する際には、土地代の1億円に加えて、運転資金として3000万円、合計で1億3000万円をポンっと融資するというスタイルが行われていました。

 

 1億円で土地を買っても、半年後にはすぐに2億円に値上がりするので、楽勝で返済できるという読みです。

 

 しかし、この総量規制によって、1億円の土地を買いたい場合には、銀行は8000万円しか融資できない、ということになりました。

 

 2000万円は自己資金を調達しなければならないわけです。

 

 しかし、銀行に頼らず2000万円の資金を調達できる企業・個人はどこにもありません。

 

 結局、1億円の土地を買うことはできず、売買は見送りになってしまうわけです。

 

 結果として、90年3月から9月までの半年間にわたり、不動産の売買取引がほぼ0になるという現象が出現しました。

 

 しかし、半年たつと、さすがに以前借りたローンが返せなくなり、土地を売却する必要性が生じます。

 

 恐る恐る売りに出したものの、自己資金を持つ買い手がなかなか現れず、大幅に安くしてやっと買い手がつくという状態となりました。

 

 こうして見る見るうちに土地の価格は下落し、バブルが崩壊してしまったというわけです。

 

 私は、どういう運命のめぐりあわせか、新卒で不動産会社に就職し、この時期に不動産の営業をやっていました。

 

 総量規制で土地取引が停止し、まったく仕事が回らなくなり、その後、土地の価格が暴落して、社内が阿鼻叫喚に陥るのを、現場でこの目で見ています。

 

 そのときの会社内の大混乱の様子は、今でも私のまぶたにしっかりと焼き付いているのです。

 

デフレスパイラルに突入

 こうして日本は、戦後初のデフレに突入しました。

 

 デフレというのは、インフレの逆で、商品の価格がどんどん安くなり、それに伴って、給料も低下していく現象です。

 

 国民経済の規模が縮小していき、国力が低下していくのです。

 

 当時の大企業や、投資をやっていた個人は、自分のお金で土地や株式に投資していたわけではなく、銀行からお金を借りて、投資していました。

 

 たとえばすぐに値上がりするだろうと見込んで、1億円の土地を購入した企業は、運転資金込みで、1億3千万円のローンを組んでいました。このローンには、購入した土地の抵当権がついています。

 

 お金を返せなかったときは、銀行によって土地が競売にかけられ、そのお金でローンを返済する仕組みです。

 

 しかし、1億円の土地が5千万円に値下がりしたらどうなるでしょうか。

 

 土地の価格が値下がりしても、借りたローンの金額は安くはなりません。

 

 1億3千万円のローンに対して、抵当権を付けた土地の価格が5千万円になってしまったわけですから、銀行は追加の担保を要求してきます。

 

 残り8千万円分の抵当権のついていない土地か、株式などの債券、または現金を銀行に差し出さなければならないわけです。

 

 資産に余力のある企業は何とかなりますが、そうでない企業や、個人は追加担保を調達することができず、破産していきました。

 

 銀行の側も大変です。融資をしても返せない企業や個人が多数生じてくると、回収不能のローンが山積みとなり、収入が大幅に減ってしまうわけです。

 

 このような、回収不能となってしまったローンは、不良債権と呼ばれていました。

 

 この状況を自力で打破するには、貸し出しをさらに増やすしかありません。

 

 しかし、企業はもはや銀行からお金を借りることはありませんでした。

 

 すでに持っているローンをとにかく返済してしまわないことには、経営が成り立たなくなってしまったからです。

 

 企業は新規の設備投資を中止し、利益のほとんどを、借入金の返済に使わなければならなくなりました。

 

 投資を行っていた個人も、破産を免れた人は、膨大な銀行からの借入金の返済に追われ、収入のほとんどが借入金の返済に消えたため、家や車などの高額商品を買う余力がなくなってしまいました。

 

 こうして設備や商品を作っていた会社の売り上げが減り、従業員の給料が下がり、従業員はさらに物を買わなくなり、売っていた企業の売り上げが減り、給料が下がる・・・・という悪循環が発生することになりました。

 

 これがデフレスパイラルです。

 

 それまで順調に伸びていた日本のGDPは、これ以降30年にわたって横ばいとなり、日本人の平均収入は下がり続けました。

 

 失われた30年がはじまったのです。

 

アメリカの攻勢

 これらはもちろん、周到な事前準備に基づいたDSの仕掛けです。

 

 バブル崩壊に主要な役割を果たした日本銀行は、日本政府とは独立した株式会社であり、DS直属の機関であることは、別の記事で述べたとおりです。

 

 

shunsasahara.com

 

 日本銀行は、その誤った金融政策によってバブルを崩壊させただけでなく、デフレがはじまったあとも、「インフレの懸念がある」と称して、インフレ政策を継続し、日本経済を立て直さないどころか、どんどん悪化させていきました。

 

 これはもちろん、DSの意を受けて、日本経済を計画的に破壊させ、国民を貧困化させるためにやっているのです。

 

 さらにこのタイミングで、アメリカは、それまでの日本の最大の強みであった、製造業と銀行に狙いを定めて、攻撃を開始します。

 

 92年に就任したクリントン大統領は、ブッシュ時代に始まっていた「日米構造協議」を本格化させ、日本に対して様々な要求を突き付けてきます。

 

 さらには1974年に制定されたものの、すでに廃止されていた「スーバー301条」を大統領令で復活させ、日本の対米輸出を徹底的に阻止し始めます。

 

 これは「外国の不公正な貿易慣行に対して制裁を行う」ための規定です。

 

 ようするに、日本の輸出品に対して高額の関税をかけ、アメリカからの輸出品の買取りを義務付けるという規定です。

 

 またロイド・ベンツェン財務長官の主導により円高政策が強力に推し進められ、日本の輸出産業に大きな打撃を与えていきました。

 

 1988年にすでに制定されていた「BIS規制」が、1992年に施行されたことも、これに追い打ちをかけました。

 

 BIS規制は以前の記事で述べたように、銀行の自己資本比率を8%以上にしろ、という規制でしたね。これはもともと日本の銀行に狙いを定めた規制です。

 

 この規制には、土地や株式などの資産は時価評価とする、とされていました。

 

 バブル崩壊で持っていた土地や株式が大幅に値下がりした日本の銀行は、せっかく準備していた自己資本比率が一気に下がってしまい、大慌てで対策を実行しました。

 

 とはいっても、すぐに利益が増えるわけはありません。

 

 銀行が行った対策は、貸出金そのものを減らす、というものでした。

 

 これによって、銀行は企業に対して、貸し渋り、貸しはがしを行いました。

 

 貸し渋りとは、そもそもお金を貸さない、という行為で、これによって全体の貸出金が減ることになります。

 

 貸しはがしとは、担保が足りなくなった貸出金を、今すぐ全額返済しろを要求し、返済させる行為です。

 

 またいま貸しているお金全部返してくれたら、さらに追加融資します、と約束して、全額返済させ、「稟議が通りませんでした~」と言って、追加融資しない、という詐欺のような行為も、行われていたようです。

 

 ようするに、いま貸しているお金を全額返済させて、貸出金の総額を減らそうということです。

 

 しかし、バブル崩壊の大不況の中でこれをやられた企業は、たまったものではありません。

 

 頼みの綱の銀行からの資金提供の道が立たれた企業は、次々に経営を破綻させていったのです。

 

自民党の下野

 1991年11月5日、海部俊樹に代わって、内閣総理大臣となったのは宮澤喜一です。

 

 宮沢首相は、かなり経済を分かっており、何とかこの状況を立て直そうと様々な試みをしたのですが、なんといっても就任した時期が最悪でした。

 

 バブル大崩壊の中で、あらゆる政策が裏目に出て、どんどん経済は悪化していきます。

 

 92年4月に、宮沢首相は、日銀特融というかたちで、銀行に公的資金を注入し、不良債権を一気に処理して、経済を立て直すことを試みます。

 

 しかし財界や大蔵省(当時)の大反対にあって、計画はとん挫し、結局何も有効打を打てずに終わってしまいました。

 

 国民の批判を浴びた自民党は、ついに分裂します。

 

 1993年、小沢・羽田グループが自民党を離脱、野党が提出した内閣不信任案に賛成票を投じ、ついに宮沢内閣の不信任案が可決されてしまいました。

 

 宮沢首相は衆議院を解散し、7月18日、総選挙が行われました。

 

 国民の怒りを買った自民党は大敗し、ついに政権の座を降りることとなりました。

 

 8月9日、日本新党の細川護熙を首相とする、非自民連立政権が成立します。

 

 日本新党は、この総選挙の直前に、細川護熙が設立した政党です。

 

 細川は、なんと衆議院議員初当選で首相となりました。

 

 初当選の首相は戦後ただ一人です。どれだけ国民の怒りが大きかったかがお分かりになると思います。

 

 細川政権も経済に対して有効な手は打てませんでしたが、地価の減少は93年末で一段落し、国民はちょっと一息ついていました。

 

 当時の日本経済は、とんでもない底力を秘めていて、この時点ではまだまだ十分回復可能な余力を持っていました。

 

 しかしDSは、さらに追い打ちをかけ、日本経済を徹底的な破壊に追い込みます。

 

 そして日本経済が本当に徹底的に破壊されるのは、この数年後、1997~98年のことになるのです。