笹原シュン☆これ今、旬!!

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日米経済戦争3 自衛隊特殊部隊によって、徹底的な証拠隠滅がはかられた!? 日本航空123便墜落事件の真実②

徹底的な証拠隠滅

 前記事で述べたように、1985年8月12日18時12分に羽田空港を飛び立った、日本航空123便は、18時56分、アメリカ軍によって撃墜されました。

 

 相模湾で、海上自衛隊護衛艦まつゆきの、対艦ミサイルが尾翼に命中、航空自衛隊のF-4ファントムに誘導されて、群馬県の御巣鷹山上空で、アメリカ空軍F-106デルタダートの空対空ミサイルによって撃墜され、地面に横たわったところを核ミサイルを撃ち込まれ粉々にされるという、凄惨な幕切れでした。

 

 その直後に、陸上自衛隊の対空ミサイルによって、先導したファントムと、撃墜したデルタダートが撃ち落とされ、現場には123便のほかに、4機の戦闘機の残骸が散乱する壮絶な状態だったわけです。

 

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 これは123便の胴体部分です。核ミサイルによって粉々にされているのがわかりますね。通常の墜落ではここまで機体が粉砕されることはありません。

 

 しかしこのような状態の中で、墜落とともに機体から投げ出され、付近の森林や洞窟で、生きながらえている生存者が少なくとも100人以上はいたようです。

 

 ミサイルが命中し、航行不能になりながらも、森林への胴体着陸を試みた、長濱機長の腕のなせるところだと思います。

 

 生存者の一人、川上慶子さんによると、

「気がつくと真っ暗で油臭いにおいがした。子供の泣き声などがザワザワ聞こえていた。手や足を動かしてみると足の下には空間があってブラブラ動かせた。自分の体中を触ってみても、みんな付いており、生きていると思った。みんなはどうなったのかと思い、叫ぶと父と咲子が返事した。母は答えなかった。『手や足を動かしてみ』と言われて足をバタバタさせると、靴が脱げそうになり左手を左足の方に伸ばした。足首がヌルヌルしていて血だなと思った。」

 

 同じく生存者の一人、日本航空スチュワーデスの落合由美さんによると、

「墜落の直後に「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。」

とのことです。墜落直後に、多数の生存者がいたことがわかります。

 

米軍と自衛隊からの救助の申し出を拒否

 墜落からおよそ30分後の19時32分、早くもアメリカ軍の輸送機が現地に到着しています。

 

 横田から沖縄にある米軍嘉手納基地への輸送任務を終えて帰還中の、Cー130輸送機が、123便のスコーク77を受信、横田からの命令で、御巣鷹山上空に赴き、墜落地点を特定、そのまま上空を旋回します。

 

 その後、座間基地からアメリカ軍の救助ヘリ2機が出動、20時50分前後に現地に到着、C‐130と合流して、救助に入ろうとしたそうです。

 

 この時C-130の航海士であった、アメリカ空軍のアントヌッチ中尉によると、救助ヘリからロープを下ろし、救助隊が下りようとしたまさにその時、横田基地の司令部から連絡が入り、帰還を命じられたということです。

 

「日本側に遭難地点の通報と救助活動開始の許可を求めたが、断られたので直ちに撤収せよ」

ということでした。

 

 この時の様子は先述の落合由美さんによると、

「やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃいやって、一生懸命振りました。「助けて」、「だれか来て」と、声も出したと思います。ああ、帰って行く・・・・・。このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした。」

 

 ということです。無念さが伝わってきますね。

 

 また、米軍から位置の特定を受けた自衛隊も救助に乗り出そうとします。しかし、そのまま待機の命令が出され、命令を振り切って救助に向かおうとした、自衛官一人が射殺されます。午後20時ごろのことです。

 

このときNHKで

「待機命令を無視して救助に行こうとした自衛隊員を射殺」

という速報テロップが出ています。

 

 さらにフジテレビで、「123便は撃墜された」という速報が報じられます。しかし圧力がかかったのか、のちにフジテレビはこの速報を、誤報であったとしています。

 

NHKによる意図的な誤報

 アメリカ軍および自衛隊の実行部隊(犯人)たちは、当然、事件直後に正確な撃墜地点を知っていました。その他の米軍及び自衛隊も、事件30分後には、正確な位置を知っていたことになります。

 

 また、墜落地点の御巣鷹山がある、群馬県上野村の住民たちも、事件を目撃していましたので、正確な撃墜地点を警察に通報しています。

 

 しかし、マスコミの報道は、事件発生後、しばらくしても、「墜落地点は不明」となっていました。

 

 夜の8時になってやっとNHKが、墜落地点を発表しますが、それは、「長野県佐久郡北相木村」でした。マスコミと救助隊がさっそく向かいますが、当然空振りです。

 

 上野村の住人はNHKに抗議電話をかけ、正確な墜落地点を伝えます。

 

 深夜になって、NHKが墜落地点を修正します。しかしそれは、御巣鷹山ではなく、すぐ隣にある、「御座山(おぐらやま)」でした。

 

 住民たちの再度の抗議電話を無視し、NHKは御座山に墜落と報道し続け、またもやマスコミと救助隊が無駄骨を折ることになります。

 

 結局翌朝6時になってはじめて、NHKは正確な墜落地点の、御巣鷹山の名を出すことになりました。

 

 これはもちろん、政府の指示に基づく、意図的な誤報です。マスコミの目を欺き、救助隊を現場に入れないために、わざと偽の墜落地点を報道し続けたと考えられます。

 
 

自衛隊特殊部隊による証拠隠滅

 その間、現地に展開していた自衛隊の特殊部隊が行っていたことは、まずは、「残骸の処理」です。

 

 この残骸とは、123便の残骸ではなく、現場に散らばっていた自衛隊のF-4ファントムと、アメリカ軍のF-106デルタダートの残骸のことです。123便以外に4機もの航空機の残骸が残っていては、だれもが怪しむからです。

 

 この残骸処理は、撃墜直後から始められ、現場には自衛隊のヘリが、残骸を入れた袋を運ぶ姿が見られていたようです。

 

 そしてもう一つは、目撃者の隠滅です。この任務は特殊装備を身にまとった、90名程度の自衛隊特殊部隊が担当しました。

 

 

 彼らが行ったことは、現場周辺に毒ガスを散布し生存者を〇害、同時に火炎放射器で、彼らの体を〇却するというものでした。

 

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 現場の写真では、遺体は完全に焼却され骨まで炭化しています。通常のジェット燃料の燃焼温度では、このような焼け方はしないそうです。

 

 顔の判別はつきませんので、遺体を収容した後、歯科医がカルテを見ながら歯列の照合を行って、身元を確認したそうです。

 

 検視した医師は、「まるで高温で2度焼きしたようだった」と述べていますので、おそらく彼らは、死んだのち、もしくは生きたまま、火炎放射器で焼かれたものと思われます。

 

 特にすべてを知っている高濱機長は、完全に炭化した姿で発見されたそうです。

 

地元住民Mさんの証言

 群馬県上野村に住むMさんは、事件当日、事故の報道を見て、友人2人とバイクで現場に向かいました。

 

 上空にヘリが旋回している場所が現場だと確信し、途中白バイの検問を突破し、ヘリの音を頼りに御巣鷹山を上ります。

 

 6~7時間かけて山を登り、午前4時にMさんは現場に到着しました。

 

 そこには40~50人ほどの生存者がいて、そこらじゅうでうめき声がしていたそうです。また既に100人程度の自衛官がいて、作業をしていました。彼らは皆、暗視ゴーグルをつけていました。

 

 Mさんが生存者を発見し、「生きているぞ」と自衛隊員に声をかけると、彼は、

「動かすと危険だ。後続部隊が救助を担当するから」と言って、生存者には目もくれず、黙々と機体の残骸を拾って、バッグに詰め、ヘリで吊り上げていたそうです。

 

 1時間ほどして午前5時ごろになると、うめき声は全く聞こえなくなりました。そしてMさんは山を下りました。

 

 この証言から午前4時の時点で40~50人程度の生存者がまだいて、彼らの焼却作業が午前5時には終了したことがうかがえます。

  

 午前5時、すべての隠滅作業が終わったあと、自衛隊がしたことは、周辺にバリケードを築き、山への立ち入りを禁止したことでした。

 

 これに対して、地元上野村の住民が反対の声を上げ、バリケードは解除されます。

 

救助隊の出発

 事故翌日の8月13日朝6時から、現場にマスコミのヘリが到着し、事故現場の映像がテレビに流れるようになりました。

 

 その映像を見ていた地元、上野村の住民が、大きな発見をします。

 

 撃墜現場から離れた、はるか下方の谷底に、123便の尾翼部分が落下しており、そこに人影が見えたのです。地元の住民たちは、映像を一目見てそれがどこだか理解しました。

 

 「スゲノ沢だ! まだ生存者がいるぞ!」

 

 実は123便が撃墜されて地面に衝突する瞬間、半回転して尾翼部分が接地し、その時、水平尾翼と後部座席の部分が本体からちぎれ、斜面を滑落、300メートル下の谷底に落下していたのです。その谷の名が、スゲノ沢でした。

 

 すぐに地元の上野村の消防団、警察、機動隊からなる救助隊が組織されました。

 

 救助隊は8時に村を出発し、土地勘のある消防団の先導で山を登ります。救助隊は、墜落現場の御巣鷹の尾根には見向きもせず、スゲノ沢に直行しました。

 

 彼らの予感は的中しました。

 

 10時半、救助隊が現地に到着して見たものは、ほぼ完全な形で残った123便の尾翼部分と、同じくほぼ完全な形を保ったままの乗客の姿でした。

 

 結局、証拠隠滅を行った、自衛隊特殊部隊は、これに気付いていなかったのです。

 

 御巣鷹の尾根にある機体の本体は粉砕され、生存者は完全に焼却されてしまいましたが、スゲノ沢は高度差があるため、核ミサイルの効果が及ばず、御巣鷹の尾根からは見えないため、証拠隠滅作業の対象外となったわけです。

 

 

奇跡の生還者

 スゲノ沢の救助隊は、10時54分、最初の生存者である落合由美さん(26)を発見します。その後次々と生存者が発見され、結局落合さんのほかに、川上慶子さん(12)と、吉崎博子さん(35)、吉崎美紀子さん(8)親子の合計4名が救助されました。

 

 そのほか12名の遺体が現場にありましたが、どれもきれいで、焼けた跡もなく、最初は生存者と死者の区別がつかなかったそうです。御巣鷹の尾根の死者はすべて炭化していたのとは対照的ですね。

 

 その後すぐさま自衛隊のヘリが到着し、次々と自衛隊員が降下してきます。しかし彼らは袋を持って突っ立っているだけで、救助しようとも、生存者を運ぼうともしません。

 

 おそらく「しまった、処理し忘れたやつらがいた。どうしよう」と思いながら、「どうやって救助隊を追い払って、生存者を〇し、遺体を焼却しようか?」などと考えていたのではないでしょうか。

 

 さすがに見かねた地元救助隊が、「自衛隊員を下すよりも、生存者を病院に運ぶのを優先しろ!」と詰め寄り、自衛隊はしぶしぶ重い腰を上げます。

 

 やっと13時5分になって、生存者は自衛隊のヘリで救助されました。発見されてから2時間にわたり、生存者はその場に放置されていたのです。

 

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救助される川上慶子さん(12)

 さらにヘリで運べば病院まで5分で着くにもかかわらず、救助ヘリはいったんふもとで生存者を下し、道がわからないとか、ヘリが手配できないとか、理由をつけて病院搬送を遅らせます。

 

 結局4人が、藤岡市の多野病院に搬送されたときは、13日の14時20分になっていました。事件発生から実に20時間後ということになります。

 

 この事件で犠牲となった、520名の乗員・乗客の方々に、心から哀悼の意を表します。

 

 同時に様々な苦難を乗り越え、奇跡の生還を果たした4名の方々に、心からの拍手を送りたいと思います。