核戦争後の世界
1816年の核戦争は、タルタリア帝国全域、特にタルタリアの本拠地であったロシア・シベリア地域に、壊滅的な打撃をもたらしました。
その核爆発の威力は実に800メガトン、広島型原爆の4万発分です。
シベリア全体は焼け野原となり、動物ばかりか、樹木、草木がすべて死に絶えました。
この地域には、死体さえ残っていません。生きとし生けるものはすべて、核爆発によって燃え尽きたとみられています。
一つの大きな帝国が滅亡した時には、生き残った人々が、小さな王国を作り、残された地域は小国分裂の状態になり、戦乱状態に突入するのが歴史の常です。
しかし、シベリア地域ではそのようなことは起きませんでした。単純に住民が文字通り全滅してしまい、誰一人そこに住む者がいなかったからです。
そこにあるのはただ、無人の荒野と、核ミサイルによってあけられた、無数のクレーターのみでした。
のちにこれらのクレーターには水がたまり、シベリア地域には無数の円形の湖が点在するようになります。
シベリア再入植
この地域に再び人が住むようになったのは、30年以上たった、1850年代に入ってからです。
それまでは核爆発による放射性廃棄物が残っており、人が住める状態ではなかったわけです。
あれれ?全面核戦争後、30年で人が住めちゃうの?チェルノブイリは何千年も住めないって言われているのに?と思った方はかなり鋭いです。
実は、核爆発後の放射線よりも、原発事故の後の放射線のほうがはるかに長く残るのです。実際、広島や長崎は被爆後10年でもう復興してましたでしょ?
核爆発後に出る放射性廃棄物は、どれも半減期の短いものが多いです。
セシウム137は30年、ストロンチウム90は29年、コバルト60は5年、ヨウ素131に至っては、わずか8日間です。
これに対して、原発事故によるメルトダウンでは、核反応が起こる前の核燃料がそのまま排出されます。
これらの半減期は、ウラン238が45億年、ウラン235が7億年、プルトニウム239が24000年です。
メルトダウンが起きると、ほぼ数百万年、数千万年単位で、その地域が汚染されてしまうのに対して、核爆発の場合は、数十年で人が住めるレベルにまで放射線量が落ちていくのがお分かりかと思います。
こうして1850年代から、ロシア中央部からシベリアにかけての地域に続々と、再入植が行われていきました。
彼らは各地に村を作り、新たな土地を切り開いていきました。
しかし彼らは、各地にある丸い湖には近づくことがありませんでした。これらは核爆発のかつての爆心地であり、かなり強い放射線が残っていたからです。
これらの湖は、地獄の湖、悪魔の穴、鬼の住処、死の深淵などと呼ばれ、現在でも、忌み嫌われています。
この記事はエンドゥさんの以下の動画を参考にしています。ぜひ一度、ご覧ください。
福島第一原子力発電所事故の真実
ちなみに、福島第一原子力発電所の事故(?)において、連日まき散らされた放射性物質の報道が行われていましたが、その時の放射性物質はセシウムや、ヨウ素だったことを覚えておられるでしょうか。
私は事件当時から不思議に思っていました。
原発事故でメルトダウンが起きたのなら、燃料のウランやプルトニウムが流出しているはずなのに、なんでセシウムなんだろう、と。
これは現在でははっきりわかります。福島第一原子力発電所では、メルトダウンは起きていなかったのです。
かわりに、3号炉が、核爆弾で爆破され、その時生じたセシウムやヨウ素が、風に乗って流されていただけだったのです。
詳しくは、当ブログの以下の記事をご参照ください。
連日、セシウムについて報道を繰り返すことによって、マスコミは、福島第一原子力発電所の真実について、全国に自白してしまっていたわけです。
現在では核爆発によるセシウムやヨウ素はほぼ浄化され、福島に放射性廃棄物はほぼありません。安心して福島に行ってください。
ロシア諸都市の運命
広大なロシアには、ところどころ大きな都市がありました。これらの都市には、頑丈なタルタリア様式の石造建築物が多数あり、1816年の大規模核攻撃やマッドフラッドの後、住人がいなくなっても、それらの建物は残っていました。
しかしマッドフラッドによる土砂の堆積で、一階部分がほぼ土砂に埋まった形で残っていたのです。
これらの一階部分は、そもそも半地下の設計だったのだ、なんて言われていましたが、2000年代に入って、それを覆す事実が次々に現れてきました。
こちらは2017年に行われた、モスクワ工科博物館の工事の現場です。普段は緑色の窓のすぐ下が地面になっていました。
その5メートル下に、きっちり窓や柱、入り口が作られていたことが明らかになりました。
ふつう、埋まっている地下部分に窓や入り口を作るなんてことはしません。
これはもともと地表の5メートル下が地面であり、地面の上に普通に建てられていた建物が、5メートルの土砂に埋まったと考えるほうがつじつまが合います。
これ以外でもロシア各地でつぎつぎと、建物の地下部分の構造が明らかにされています。
これはペテルブルグにおける地下工事の様子です。明らかにかつては現在より5メートル下の部分が地表であったことがわかります。
こちらはロシア中央部のカザン市です。
これはオムスクにおける、ヴルーベル美術館の工事現場です。
いずれも地下5~7メートルのところから建物が建てられており、かつてはそこが地表であったことがわかりますね。
詳しくは、エンドゥさんの以下の動画をご覧ください。
大火による旧文明の破壊
これらのロシアの大都市は、マッドフラッドの後にヨーロッパや中央アジアから、多くの人々が入植し、再び都市としての復興を遂げていました。
しかしこれらの都市は、タルタリアの文明そのものを亡き者にしようとする、DSローマの標的となります。
マッドフラッドから18年後、1834年、トゥーラとその周辺の都市に、大規模な火災が起こります。これはトゥーラ大火と呼ばれています。
この火災によって、多くのタルタリア様式の石造建築物が焼失し、その後これらの都市には疫病が蔓延しました。
あれ?なんで単なる火災で、石造建築物が焼けるのでしょうか。シベリアに落ちた核ミサイルにもマッドフラッドにも耐えきった、タルタリア様式の建造物が、単なる火災で焼失?変だと思いませんか。
この謎は、2020年に行われた、トゥーラ市の地下工事の際に明らかになりました。
トゥーラ氏の地下2メートルの位置にある地層から、大量の人骨が出土したのです。
これらの人骨は、皆、北に向けて並べられていました。ちなみにロシア正教の教えでは、埋葬は東に向けて行うことになっています。
さらには同じ地層から、大量の日用品や、ごみが出土しました。
この地層の土砂を分析すると、セシウムが析出し、土砂は放射線を放っていました。
どうやら、トゥーラとその周辺の都市は、核ミサイルによって焼き払われたようです。
核爆発によって生じるセシウムが動かぬ証拠ですし、日用品が出土するということは、逃げる際に持ち物を置いて行った、つまり、大混乱の中で着の身着のまま逃げ出したということを意味します。
さらには当時のトゥーラの警察署長から、皇帝に向けて送られた文書が残っています。
これによると、トゥーラ市に向けて上空を飛ぶ青い火球が目撃されています。火球がトゥーラに向けて飛んでいき、その後巨大な爆発が起こり、トゥーラに大火災が発生したということです。
核ミサイルを知らない人が、それを目撃し、描写したらこんな感じになるだろうな、という文章です。
トゥーラは、1812年、ナポレオン戦争当時のモスクワと同様、DSローマによる核ミサイルによって焼き払われ、タルタリア様式の建造物の多くが破壊されてしまったのです。
ちなみにトゥーラ市に起こったことは、マッドフラッド直後のヨーロッパや、東南アジアなどでも起きていました。
DSは、マッドフラッド後に世界各地に残された、タルタリア様式の建造物を、軒並み核ミサイルで破壊していったのです。
マッドフラッド後の1820年から、世界中にコレラが蔓延しました。
その症状は上記の右側の絵の通りです。コレラの症状は、ひどい脱水症状を主軸とし、体がやつれていくというものですが、これはちょうど放射線被ばくによる症状と一致しています。
DSは、マッドフラッド後に各地に残るタルタリアの痕跡を核ミサイルで一掃し、その際に起きた放射線被ばくを、コレラという伝染病でカムフラージュしたものと思われます。
また、19世紀まではヨーロッパやロシアでは、火葬が主流でした。しかし、各国政府はマッドフラッド後に火葬禁止令を出し、土葬による埋葬に切り替えます。
これは、核ミサイルによる死の灰対策と思われます。
放射線を浴びて死亡した死体を焼いて灰にしても、放射能はそのまま残ります。もしも街中で死体を焼いて、その灰が空気中にまき散らされたら、死の灰となって放射性物質がそこら中にまき散らされ、収拾がつかなくなります。
これを防止するために火葬禁止令が発令されたというわけです。支配層はすべてを知っていたというわけですね。
タルタリア文明の痕跡の破壊
ロシアは、1816年の大規模核戦争のメインターゲットとなりました。シベリアは完全に焼き払われ、1850年まで人が住むことができませんでした。
その後のマッドフラッドで、都市が泥に埋まりましたが、埋まった都市に、ヨーロッパや中央アジアから人々が移住し、そこを占拠しました。
その後、都市への核攻撃によって、タルタリア文明の建造物の大半が焼き払われました。
残された建造物はDSが占拠し、フリーエネルギー発電所はロシア正教の教会となり、工場や大規模な農園はDS貴族が占領し、邸宅として私物化していったというわけです。
タルタリア文明の遺物は、本来の用途とは全然別の用途に用いられ、タルタリア文明そのものはこの地上から失われていくこととなったのです。