笹原シュン☆これ今、旬!!

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日米経済戦争15 小泉劇場ついに開幕!! 国民の熱狂のもとに、郵貯・簡保の富はDSの手に落ちた?

小泉劇場の開幕

 2005年8月8日、郵政民営化関連法案の参議院での否決を受けて、小泉純一郎首相は衆議院を解散しました。

 

 

 小泉首相はこの解散を「郵政解散」と銘打ち、解散後の総選挙を、郵政民営化の賛否を問う選挙とすることを明確に打ち出しました。

 

 小泉はマスコミを用いて、郵政支持者を既得権益にしがみつく者たちとし、既得権益の打破を叫び、反対派を「抵抗勢力」とするイメージ戦略に成功しました。

 

 郵政を「官」、改革派を「民」とし、国民の官僚への不信感を背景に、官民の対立をあおり、郵政民営化こそが、正義の改革である、世論を誘導しました。

 

 マスコミは連日これを報道し、正しき国民は郵政民営化に賛成すべきだ、という世論が形成されていきます。

 

 また小泉は、自民党総裁としての、自民党議員の公認権をフル活用し、郵政民営化に反対の議員は、自民党議員として公認しない、という戦略を打ち出しました。

 

 反対派の議員は、公認しないだけではなく、同じ選挙区に他の候補者を自民党公認候補として送り込みました。これらの候補者は「刺客」と呼ばれました。

 

 このとき東京10区の小林興起議員のもとに、刺客として送り込まれたのが、小池百合子氏です。

 

 このほかにも広島6区の亀井静香議員のもとには、ホリエモンこと堀江貴文氏が、静岡7区には片山さつき氏が、奈良2区には高市早苗氏が、福井一区には稲田朋美氏が刺客として送り込まれました。

 

 郵政民営化反対の議員は、自民党の公認をとることができず、さらには刺客を送り込まれ、大変厳しい選挙となったわけです。

 

 また小泉首相は、大量の新人女性候補を擁立し、女性を前面に立てたイメージ選挙を行いました。

 

 この時初当選した新人女性議員たちは、今でも議員を続けている方が多く、「小泉チルドレン」と呼ばれています。

 

 先ほど刺客としてご紹介した、片山さつき氏や稲田朋美氏も、小泉チルドレンです。

 

 小泉首相の、マスコミを駆使した選挙手法は「小泉劇場」と呼ばれ、国民は連日テレビの報道に熱狂しました。

 

 国民の関心を集めた郵政選挙の投票率は、史上空前の67,5%を記録しました。

 

 選挙結果は、自民党が480議席(当時)中、327議席を獲得する圧勝となりました。

 

 自民党は単独で衆議院の3分の2以上の議席を獲得し、参議院で否決された法案を、再議決して可決できる力を持つこととなったのです。

 

郵政関連法案の成立

 2005年9月21日、小泉純一郎は圧倒的多数で首班指名を受け、第89代内閣総理大臣となりました。

 

 その後、郵政民営化関連法案が、10月14日の特別国会に再提出されました。

 

 この採決では、かつて反対票を投じた議員の大多数が賛成に回り、衆参両院の可決を経て成立しました。

 

 この法案の成立を受けて、2006年1月23日、日本郵政株式会社が発足します。

 

 2007年10月1日、郵政のそれぞれの事業が日本郵政から分離されます。

 

 郵便事業会社、郵便局会社、ゆうちょ銀行、かんぽ生命保険の4つの会社が発足し、日本郵政は、それら4つの会社の株式を所有する持ち株会社となりました。

 

 2012年10月1日には、赤字続きだった郵便事業会社が、郵便局会社に吸収合併され、日本郵便株式会社となります。

 

 そして2015年11月4日、DS待望の、郵政関連各社の株式上場が行われます。

 

 それまで日本政府がすべての株式を持っていた日本郵便、ゆうちょ銀行、かんぽ生命保険の株式の11%が市場に公開されたのです。

 

 その後、株式は徐々に市場に公開され、2017年には36%、2021年には40%の株式が市場に公開されています。

 

 2017年時点で、日本郵便の株式全体の13%、ゆうちょ銀行とかんぽ生命保険はともに9%程度が、海外機関投資家、すなわちグローバルDS 企業の保有となっています。

 

 なんだその程度か?と思われるかもしれませんが、彼らはさっそく、郵政3社に取締役を送り込み、有効な資産運用と称して、手持ち資産の33%程度を海外の債権に投資させています。

 

 これによって、ゆうちょ、かんぽあわせて600兆円のうち、3分の1の200兆円が、日本人の手を離れ、グローバルDSの懐に入ってしまったわけです。

 

 

小泉純一郎の軌跡

 ここで改めて、小泉純一郎とはどのような人物だったのか、どのような経緯を経てグローバルDSの手先となったのか、について検討してみたいと思います。

 

 小泉純一郎の祖父は、小泉又二郎という人物です。

 

 この方は、神奈川県横須賀の代々とび職の家系に生まれ、若いころはとび職をやっていました。

 

 その後、横須賀地方のはぐれ者たちをまとめ上げ、小泉組というやくざ組織を作り、その組長として、横須賀の裏社会に君臨します。

 

 若いころの全身に入れ墨を入れた写真が残っています。

 

 

 

 さて、この小泉組ですが、近代やくざによくあるように、横須賀港の人足手配から始めて、横須賀港を仕切るようになり、だんだん大きくなって横須賀全体をまとめ上げた、という経緯のようです。

 

 有名な山口組も、神戸港の人足手配からはじまって、神戸港を仕切り、どんどん大きくなっていますね。

 

 くわしく調べてみると、どうやらこの港湾人足手配からはじめて、組を巨大化させていくという、日本近代やくざに共通のしのぎシステムを最初に作ったのが、この小泉又二郎のようです。

 

 山口組などは、あとから、小泉又二郎の作ったシステムをまねて、そのまま神戸で実行し、大きくなったようですね。

 

 小泉又二郎は、日本の近代やくざの基本システムを作り上げた、いわば「近代やくざの祖」とでも呼べる人物であることがわかります。

 

 これはこれで、すごい人物であるということができます。

 

 小泉又二郎は、この後、政界に進出します。

 

 横須賀市の市議会議員から、衆議院議員となり、当時の立憲民主党内で派閥の領袖となり、若槻礼次郎内閣の逓信大臣として入閣を果たします。

 

 最後は衆議院の副議長を務めた後、終戦直前に貴族院議員となっています。

 

 やくざの親分が貴族になってしまったわけです。

 

 小泉又二郎は「いれずみ大臣」と呼ばれ、国会議員になった後も、自分がやくざの親分であること、全身に入れ墨を入れていることを隠すことはありませんでした。

 

 やくざの親分が、地元のためにいろいろやってあげていたところ、地元住民の支持を受け、政界を上り詰めていった、という感じです。

 

 さて、この小泉又二郎には、芳江という名の娘がいました。

 

 芳江は20代のころ、父親の手伝いをして、父の所属する立憲改進党の事務所で働いていました。

 

 そして同じ事務所の事務員だった、鮫島純也と恋に落ちます。

 

 芳江は父親のところに結婚したいと言って、鮫島を引き合わせますが、又二郎はこの結婚に強硬に反対しました。

 

 結局2人は駆け落ちし、又二郎のもとから行方をくらませてしまいます。

 

 なぜ又二郎は、この結婚に反対したのでしょうか。

 

 それは、鮫島純也が朝鮮人だったからです。

 

 鮫島純也の本名は朴純也、鹿児島県の加世田の朝鮮人部落で、漁師をやっていました。

 

 高校を出て、上京し、立憲改新党の事務員をやっていたわけです。

 

 ちなみに鮫島の名は、網元をやっていた加世田の名家、鮫島家の名前を勝手に盗用したもので、鮫島家側では純也が鮫島を名乗っていることは全く知りませんでした。

 

 朝鮮人にありがちな、日本名を名乗って日本人になりすます、という行為をやっていたわけです。

 

 政治家を輩出した朝鮮人部落としては、山口県の田布施が有名ですが、加世田は田布施よりも数百年早くできた部落で、室町時代中期にはすでにあったようです。

 

 ここに住む朝鮮人は、長年日本人との通婚を拒否し、朝鮮の伝統的な暮らしをかたくなに守り続けていました。

 

 結局又二郎は、娘の強い願いを拒むことができず、純也が小泉家に婿養子に入ること、帰化して日本人になることを条件に、2人の結婚を認めました。

 

 朴純也は小泉家に嫁いで小泉純也となり、又二郎の後を継いで衆議院議員となりました。最後は池田勇人内閣、および佐藤栄作内閣の防衛庁長官を務めています。

 

 この小泉純也と芳江の子供が、小泉純一郎です。

 

 朝鮮人の父と、日本人の母とのハーフというわけですね。

 

 純也と芳江は2男3女をもうけましたが、純一郎は長男です。

 

 純一郎は勉強ができない子でしたが、裏口入学で慶應義塾大学に入学し、そこで遊びまくっていました。

 

 そして大学4年の時、女子学生をレイプして神奈川県警に逮捕されます。

 

 まあ、おそらく、大学4年間レイプしまくっていて、ついに最後につかまってしまった、ということだと思います。

 

 このとき純一郎は、父親の名を出して釈放を要求しますが、受け入れられず、結局グローバルDSによって、助け出されて、身柄を解放されたようです。

 

 この時から純一郎は、グローバルDSの将来の幹部候補生として、闇の儀式に参加していたようです。

 

 父純也が亡くなった1969年、父の地盤を継いで衆議院議員選挙に立候補しますが、落選してしまいます。

 

 72年、次の衆議院議員選挙で当選していますが、ここでは統一教会系の支援を取り付けることに成功し、当選することができたようです。

 

 78年にはDS企業である、エスエス製薬会長の娘、宮本佳代子と結婚しますが、4年後に離婚しています。この結婚によって、小泉進次郎が生まれています。

 

 そして92年、小泉が通い詰めた新橋の芸者、小はんが、死体で発見されます。

 

 ドアの上部にかけた着物の帯が、首に絡まっており、自殺と判定されましたが・・・、こんなやり方で自殺できるはずはありません。

 

 


 どうやら、小泉純一郎が、プレイ中に、小はんの首を絞めて殺してしまった、というのが真相のようです。

 

 この時も小泉は、グローバルDSによって、事件をもみ消してもらい、マスコミにも報道統制をかけてもらったようです。

 

 この時点で小泉は、すでにグローバルDSに頭が上がらなくなっており、DSの手先として動くことが決定づけられていたのです。

 

 ちなみに72年の初当選の時から、小泉純一郎の秘書を務め、安倍内閣で内閣官房参与となった、飯島勲という人物がいます。

 

 彼はどうやら、学生時代からの、小泉の遊び仲間で、女子学生レイプ事件の時も、小泉とともに現場にいたようです。

 

 その後、新橋芸者小はん殺害事件の時も、隣室に控えていて、事件を知って、帯を首に巻いて偽装したのは、飯島のようです。

 

 小泉純一郎は、自ら犯した罪を、グローバルDSにも、秘書にも握られてしまっており、彼らの言うことを聞かざるを得ない状況だった、ということができます。