竹中平蔵の政策
小泉政権時代に忘れることができないのは、小泉純一郎のブレーンを務めた、竹中平蔵という人物です。
竹中は、グローバルDSの代理人として、小泉内閣の大臣を歴任し、経済に弱かった小泉純一郎を裏から操り、日本国民から収奪するための、さまざまな政策を実行に移しました。
彼の行った政策は、大きく分けて3つあります。
1.緊縮財政を徹底し、日本経済の弱体化を図る。
2.郵政を民営化し、郵貯、簡保の資金600兆円をDSに献上する。
3.労働システムを変更し、日本人を貧乏にする。
この3つです。2.の郵政民営化については、これまでの記事で説明しましたので、ここでは1.と3.について、詳しく述べていこうと思います。
日本経済の弱体化
竹中平蔵は、1951年和歌山県で生まれます。一橋大学を卒業後、日本開発銀行に入社します。
1981年からは、アメリカで、ハーバード大学やペンシルベニア大学客員研究員として経済学の研究を進め、87年に大阪大学助教授、89年にはハーバード大学客員准教授、及び国際経済研究所客員フェローに就任、90年に慶應義塾大学助教授となっています。
そのほか、日本船舶振興会が作った東京財団の理事長や、日本興業銀行経営アドバイザー、日本マクドナルドのシンクタンクである、フジタ未来経営研究所理事長、アサヒビール社外取締役等も務めています。
輝かしい経歴ですが、まあようするに、DS幹部の家系に生まれ、若いころから徹底的にDSの研究所や企業を歴任し、DS経済システムを叩き込まれたということです。
また、経済学者というのは、DSインチキ経済システムによる収奪をごまかし、正しいことをやっているかのように民衆に勘違いさせる役割を担っていますが、竹中平蔵は、この民衆説得の手腕も最上級でした。
竹中平蔵は、2001年(平成13年)の第1次小泉内閣で、民間から経済財政政策担当大臣およびIT担当大臣に任命されます。
大臣は通常国会議員ですが、全国務大臣の半分未満なら、民間からの登用が認められています。
竹中は、小渕内閣、森内閣の時も、政府の諮問機関の委員をやっていましたが、それでも民間からいきなり大臣に登用されるのは異例のことです。
グローバルDSは、やっと政権をとることができた日本に対して、自らに忠実な子飼いの経済学者を大臣につけ、素早く自分たちが予定していた政策を実行させようとしたというわけです。
竹中は就任直後、さっそく「経済財政諮問会議」を活性化します。
2000年まで、予算編成は大蔵省がやっていましたが、01年の省庁再編で大蔵省は財務省となり、予算編成権を取り上げられてしまいました。
その代わり、経済財政諮問会議で予算編成をやることになっていたのですが、森政権時代は、単なる会議になってしまっていました。
竹中は、この経済財政諮問会議に与えられた本来の権限を活用し、予算編成権をフル活用して、それまで日本DSのメンバーに配分されていた予算を、グローバルDSで山分けすることに成功しました。
さらに、この会議では、「骨太の方針」と呼ばれる政策指示書を竹中自らが策定し、それを官僚に銘じて実行させました。
彼が骨太の方針でまず行ったのは、財政均衡の実現です。
ようするに、税収が少なくなったから、支出も減らせ、ということで、小渕政権で盛んに行っていた、日本経済復興のための財政支出をどんどん縮小化させていったのです。
日本経済は絶対に復興させない、日本人の所得は絶対に増やさないということです。
金融再生プログラム
2002年9月30日、小泉純一郎首相は、柳澤伯夫金融担当大臣を更迭し、後任の金融担当大臣に、竹中平蔵を任命しました。
金融担当大臣は、金融システムの復旧、つまり銀行の不良債権処理を担当する大臣です。
柳澤大臣は、ゆっくりと無理のない不良債権処理を提唱し、それを実行していました。これに対して竹中は、このやり方ではいつまでたっても不良債権処理は終わらない、政府が強権を発動して、国費を注入すべきだという意見でした。
銀行システムというのは、国家から独立した、DSによる収奪システムであることは、別の記事で解説しました。
グローバルDSとしては、バブル崩壊後の銀行の不良債権処理が一向に進まず、自分たちに資金がスムーズに献上されてこない状況に業を煮やし、竹中に収奪システムの素早い修復を命じたというわけです。
竹中平蔵によって作成された金融再生プログラムによる不良債権処理とは、銀行の資産の査定を厳格化し、自己資本比率が低い銀行は問答無用で国有化して公的資金を注入するというものでした。
新たに厳格化された資産査定の結果、りそな銀行の自己資本比率は基準の4%を大きく下回る2%台であり、足利銀行は233億円の債務超過であることが判明しました。
りそな銀行は総額1兆9660億円の政府出資を受けて国有化され、足利銀行は金融庁による破綻処理を受けることになりました。
またこれら2行において、粉飾会計を行っていた経営陣は後に刑事告発され有罪判決を受けました。
さらにはみずほ、三井住友、東京三菱(当時)、UFJ(当時)の各銀行にも、公的資金が投入され、不良債権処理が行われました。
これらの処理によって、DS銀行は軒並み息を吹き返し、元気に国民からの資金の収奪と、DSへの資金の献上を行っていくことになりました。
これと同時に、竹中は、ゾンビ企業に対する公的資金注入と救済を行っています。
ゾンビ企業というのは、本業で借金返済のめどが立たず、新たに借金を重ねて、借金を返済している企業のことです。
この時公的資金注入を受けたゾンビ企業は、ダイエー、カネボウ、大京、いすゞ自動車、日商岩井、などです。
バブル崩壊の余波を被ったDS企業を、DSの命を受けて救済したということです。
日本人を貧乏に!!
その後竹中平蔵は、2004年の7月の参議院議員選挙に出馬し、当選、参議院議員となります。
同年2004年9月、内閣改造が行われ、竹中平蔵は経済財政担当大臣とともに、郵政民営化担当大臣を兼務します。
そして2005年にかけて、それまで遅々として進まなかった郵政民営化を実現させます。これについては、前記事および前々記事で述べたので、ここでは省略します。
小泉首相退陣間近の2006年、竹中は税法を改正します。
これによって所得税の最高税率がそれまでの50%から37%まで大幅に低下しました。同時に法人税も、わずかながら低下しています。
これはようするに、われわれ金持ちから税金を取るな、税金は貧乏人が払え、ということです。
こうしてみると、小泉内閣時代の竹中平蔵の政策は、実に一貫しているのがわかります。
一言で言い表すなら、「日本人よ、貧乏になれ!!」ということです。
竹中自身の言葉を借りれば
「若者には貧しくなる自由がある。
しかし、そのとき頑張って成功した人の足を引っ張るな」
ということでしょう。
日本人の半分以上が非正規雇用に
閣僚在任期間を通じて、竹中平蔵が行ったもう一つの大きな政策は、派遣労働の推進です。
そもそも国民を非正規労働者にして、貧困化させるというのは、グローバルDSの各国支配の基本政策であることは、以前の記事で述べました。
80年代前半の時点で、日本人のサラリーマンはほぼ全員正社員で、会社内にいる非正規労働者は掃除のおばさんぐらいでした。
まずは1985年、日航123便撃墜事件の直後に、労働者派遣法が制定されました。
このときは、派遣が認められるのが、秘書や通訳、添乗員や清掃業など、わずか13職種に過ぎず、法は制定されたものの、ほとんど利用されない状態でした。
その後、機械設計や放送機器操作、放送番組制作の3職種が追加され、96年には、書籍の編集や、インテリアコーディネーター、放送番組の演出や大道具・小道具などの10職種が追加され、合計26職種に派遣が認められました。
この時代は、主にテレビ局が番組制作費を安くあげたり、専門性の必要とされる特殊な職業の人材調達のために、人材派遣が用いられていました。
人材派遣が大きな転機を迎えたのは、1999年です。
この年の7月29日に、国際労働条約の第181号条約(民間職業仲介所条約)を日本が批准したことを受けて、12月1日、労働者派遣法の大幅改正が行われました。
この改正では、派遣職種がポジティブリストからネガティブリストに変更されます。
なにそれ?とお思いの方も多いと思いますが、いままでは○○など26業種は派遣できる、他はダメ、という感じで派遣できる職種を決めていたのに、この時から○○はダメだけどあとはOKという方法で、派遣できない職種を決めて、あとは全部OKとなったわけです。
ちなみにこの時派遣が禁じられた職種は、港湾運送、建設業、警備、医療、製造業の5職種だけです。あとはありとあらゆる職種で、人材派遣が解禁されたということです。
ちなみに港湾運送は、日本のやくざのシノギであり、警備は警察の天下り先、医療は医師会の利権、建設業と製造業は、ゼネコンや自動車会社の反対で見送られました。
本当は全職種OKにしたかったんですが、利権を持っている集団が強いところは解禁できなかったというわけです。
さて、このとき、人材派遣が解禁された、最大の職種は何だったのでしょうか。
それは一般企業の事務職です。
企業の事務職は、それまでは新卒で入った女性が担当し、社内の男性と結婚して退職するというのが一般的でした。
この分野の人材派遣が解禁されたことにより、一般の女性が企業の正社員として採用されず、人材派遣会社を通して、派遣社員として事務を行うことが、一般的となりました。
人材派遣業ができ、人材派遣会社が乱立し始めたのもこのころです。
テレビドラマで、派遣社員を主人公にした作品が次々に放送され、女性たちが派遣社員として一般企業で働くことがごく普通のことになっていきました。
上のグラフを見ると、1999年を境に、非正規労働者の割合が急速に上昇し、現在では女性に関してみると、なんと全体の半数以上が非正規労働者となっているのがお分かりいただけると思います。
そして竹中平蔵が経済財政担当大臣だった2004年3月1日、労働者派遣にとっての最後の聖域、製造業における、人材派遣が解禁されました。
自動車会社などのメーカーの、工場で働く人々が、派遣社員となったのです。
これでほぼすべての職種において労働者派遣が認められることとなり、日本人の非正規雇用化が一気に進むこととなりました。
日本の特殊な労働環境
これはもちろん、DSにとっては予定通りというところです。
しかし、ここまでひどい労働環境になってしまった原因として、日本独自の事情が2つあります。
まず一つ目は、日本では、欧米と違って、不要な社員を自由に解雇できないという事情があります。
60~70年代の、労働争議たけなわの時代、会社は整理解雇と称して不要な社員の首を切り、解雇された社員が裁判で戦う事件が頻発していました。
この流れに最終的に決着をつけたのが、1979年、東洋酸素事件における東京高等裁判所の判決です。
東洋酸素は、不採算となったアセチレンガス部門を閉鎖するため、そこで働く13名の社員を解雇しました。解雇された社員が訴訟を起こしました。
この時裁判所は、現行労働法における正社員解雇のための要件を4つ示しました。
それは、(1)人員整理の必要性、(2)解雇回避努力義務の履行、(3)被解雇者選定の合理性、(4)手続の妥当性
であり、この4つをすべて満たさない限り解雇はできないとしたのです。
この判決を受けて、労働基準法が改正され、第18条の2で、「解雇は客観的に合理的な理由を書き、社会通念上相当であると 認められない場合は、その権利を濫用したものとして無効とする」という条文ができました。
この判決において東京高等裁判所はそれぞれの要件の適用条件を詳しく解説していますが、これらの要件は極めて厳格で、事実上これをすべて満たせる企業はこの世に存在しない、というレベルのものでした。
これ以降、どんなにぐうたらな社員であっても、会社側から解雇することはできなくなり、社内でいろいろな嫌がらせをしながら、社員本人がやめるというのを待たなければならなくなったのです。
今でも業績が傾いてくると、欧米の会社は社員〇千人解雇、などとすぐに大量解雇を実行しますが、日本の会社は、希望退職を募り、ゆっくり退職希望者が出るのを待たなければならないのは、この判例があるからです。
もう一つの要因は、欧米と異なり、日本の労働者派遣法には、ピンハネ率の上限規定がない、ということです。
欧米にも人材派遣会社はありますが、ピンハネ率には上限規定があり、たいていの場合、10%が上限となっています。
つまり、会社が派遣会社に50万円払えば、そのうち45万円は派遣される本人に渡さなければならないという規定です。
日本にはこの規定がないので、派遣会社の取り分が大幅に増えることになります。
ある会社の例を挙げると、会社は派遣会社を通して、派遣SEに対して、月67万円を支払っていたそうです。しかし、派遣されている当人に聞くと、月17万円しかもらっていない、とのことで、とても驚いた、という話です。
この例では、差額の50万円が派遣会社の懐に入っていたわけです。ピンハネ率実に75%!。あこぎな商売ですね。
ちなみにこの会社において、同じ仕事をやっている正社員の給料は、月40万円だそうです。会社は派遣社員に、正社員より高いお金を払っているわけです。
なぜ、こんな現象が起きるのでしょうか。
竹中平蔵自身の言葉を借りれば、
「正規雇用というものは、ほとんど首を切れないんですよ。首を切れない社員なんて雇えないですよ」ということです。
バブル崩壊後のデフレ経済の下で、先行きの見えない企業は、いつ業績が悪化するかわかりません。
正社員を雇ってしまうと、上にあげた判決の影響で、会社の判断で解雇することはできません。大量の社員を雇って、業績が悪化すれば、人件費に圧迫されてすぐに会社が傾いてしまいます。
これを避けるために、会社は、正社員より高いお金を派遣会社に払ってでも、いざというときにすぐに解雇できる派遣社員を雇わなければならなくなっているのです。
しかし派遣された当人は、正社員よりはるかに低い給料しか、派遣会社からもらうことができず、日本人の貧困化が進行していきます。
そしてこの差額をがっぽりピンハネして、派遣会社が大儲けするという構図なのです。
自分で儲ける
このシステムを作り上げた竹中平蔵が、こんなにもうかる商売を見逃すわけはありません。
2006年9月26日、小泉純一郎内閣が総辞職し、新たな首相に安倍晋三が選出されます。これにともない、竹中平蔵も閣僚を辞任、9月28日には、まだ任期が4年残っていた参議院議員を辞職し、政界から完全に引退します。
その後、慶應義塾大学教授を務めていた竹中は、翌2007年2月、人材派遣最大手、パソナの特別顧問に就任します。
その後竹中は、2009年には、パソナの会長となり、自分自身が作った人材派遣業で大儲けすることとなります。
まさに、自分で構想→自分で提案→自分で決定→自分で儲ける を実践していますね。
2020には、政界とのパイプを使って、東京オリンピックのスタッフの派遣業務をパソナが独占受注しています。
このとき、国からは、スタッフ一人当たり日当20万円をもらっておきながら、実際のスタッフには日当として1万円しか渡していなかったことが明らかになりました。
差額の19万円は、すべて竹中の懐に入ったわけです。ピンハネ率実に95%!、素晴らしくもうかる商売ですね。