笹原シュン☆これ今、旬!!

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日米経済戦争17 堤義明は、日本収奪のためのいけにえとされた!? 日本DSと運命を共にした、西武王国の繁栄と滅亡とは?①

世界一の大富豪 堤義明

 みなさんは世界一の大富豪といえばだれを思い浮かべるでしょうか?

 

 ビル・ゲイツ?ジョージ・ソロス?ウォーレン・バフェット?

 

 現在ではGAFAと呼ばれるアメリカの巨大企業の経営者がまず思い浮かぶと思います。

 

 しかし、世界の大富豪ランキングにアメリカ人の名前が並ぶのは、1995年以降のことです。

 

 それ以前の大富豪ランキングには、上位にずらりと日本人が名を連ねていました。

 



 1995年にビル・ゲイツが世界一になる前、10年以上にわたって世界一の大富豪の座についていたのは、西武グループ総帥、堤義明です。

 

 堤義明は、93年にアメリカの経済誌フォーブズで、世界一の大富豪と紹介され、世界的にも名が知られていました。

 

 当時の堤義明の個人資産は一兆円前後、西武グループ全体の資産は4兆円前後と言われていました。

 

 この巨大企業グループ、西武は、小泉内閣が郵政民営化を実行する直前の2004年、グローバルDS日本政府の力で解体されてしまうのです。

 

一代で王国を築いた男

 西武グループを作り上げたのは、堤義明の父、堤康次郎です。

 

 堤康次郎は、1889(明治22)年3月7日、滋賀県で生まれます。

 

 海軍予備学校を卒業後、郡役所に勤務していましたが、祖父の死を契機に上京、早稲田大学政治経済学部政治学科に進学します。

 

 卒業後、すぐに出版社を立ち上げ、社長として雑誌『新日本』を発行したり、大隈重信や後藤新平などの著書を出版していました。

 

 しかし、結局会社は倒産してしまい、1915年、康次郎は再起をかけて、不動産業に進出します。

 

 康次郎が最初に手掛けた不動産投資は、長野県の軽井沢周辺、沓掛一帯の土地80万坪の買収です。

 

 当時の価格で3万円(現在価格で3億円?)あまりで、何もない広大な原野を買収した康次郎は、そこに発電所を作り、ガス・水道を引き、道路を整備して住宅を建設し、一軒あたり500円で別荘として販売します。

 

 これで巨大な利益を上げた康次郎は、その資金で、今度は箱根周辺の土地10万坪を買収します。

 

 これも同じようにインフラを整備し、建物を建てて販売します。

 

 1920年には、箱根土地株式会社(のちのコクド)を設立し、箱根周辺の本格的観光地化を開始します。

 

 芦ノ湖に船着き場を作って遊覧船を走らせ、飛行場を作って、芦ノ湖遊覧飛行を開始するのです。

 

 ちなみに、軽井沢も箱根も、現在では日本有数の観光地ですが、康次郎が開発する前は、単なる原野でした。

 

 軽井沢は教会がぽつりぽつりと立っていて、神父さんが住んでいた程度、箱根に至っては温泉宿が一軒あるだけ、あとは原っぱ、原生林、という土地だったのです。

 

 その原生林をまとめて買い取って、平地を作り、電気ガス水道や道路を自分で整備し、家を建てて、観光施設を作り、人を呼んで地価を上げ、住宅を販売して利益を上げるということをやったわけです。

 

 康次郎自身はもちろん大儲けですが、これによって、軽井沢、箱根の町が大発展し、日本有数の観光地として育っていったというわけです。

 

 次に康次郎は伊豆半島の土地を買い占め、熱海、伊東、下田の開発を行いました。

 

 これに前後して、伊豆半島各地とすでに開発していた箱根との接続を試みます。

 

 まずは駿豆鉄道の買収です。

 

 そして康次郎は、箱根と熱海を道路にによってつなぎます。なんと、有料道路を自分で作ってしまったのです。

 

 1925年、箱根土地開発によって、箱根ー熱海間を結ぶ十国自動車専用道路が開通しました。これがわが国初の有料道路です。

 

 まだ東名高速も名神高速もない時代に、日本初の有料道路を自分で作り、そこに路線バスを走らせて、箱根と熱海を直結してしまったというわけです。

 

 前年の1924年、康次郎は地元滋賀から、衆議院議員に立候補し、初当選しました。これと同時に康次郎は、東京都内の住宅地の開発に着手します。

 

 大泉学園、国立、一橋学園、など土地を買い占め、大学を誘致すると宣伝して、住宅を建てて分譲しました。

 

 この時の康次郎の手法は、まず鉄道周辺の何もない土地を買い占め、インフラを整備して住宅を建設するとともに、

 

 沿線の鉄道の駅舎を自分で建設し、鉄道に寄付してそこに電車を停車させてしまう、というものでした。

 

 武蔵野鉄道沿線の土地を開発し、大泉学園の駅を作って、武蔵野鉄道に無料で寄付し、武蔵野鉄道に自分が作った住宅地に停車してもらう、という大技です。

 

 鉄道会社側でも無料で駅が一つできて乗降客が増えるので、大喜びで駅舎の寄付を受け入れ、康次郎の土地に人を運び続けた、ということです。

 

 国立などは、国鉄(現JR)中央線の国分寺と立川の間の単なるなにもない原っぱでした。

 

 ここを買い占めて住宅地を作り、駅舎をつくって国鉄に寄贈し、電車を止めてもらったわけです。

 

 国分寺と立川の間の駅なので、国立(くにたち)という、安易なネーミングですね。

 

 これらの住宅地の目玉となっていた大学の誘致は、大泉学園、国立では失敗しましたが、一橋学園では、一橋大学の誘致に見事に成功しました。

 

西武王国建国

 1931年、康次郎は、沿線の土地開発を精力的に行っていた、武蔵野鉄道(現西武池袋線)を買収します。ついに鉄道自体が自分の所有物となったわけです。

 

 この後康次郎は、豊島園を買収し遊園地に改装したり、所沢に西武園、ユネスコ村を作ったり、飯能にハイキングルートを作るなど、武蔵野鉄道沿線のレジャー施設の整備を着実に行っていきます。

 

 39年には一橋学園があった多摩湖鉄道(現西武多摩湖線)を買収、翌40年には池袋駅に武蔵野デパート(現西武百貨店)を建設します。

 

 このころから、康次郎の事業は順調に回り始めます。

 

 その原動力となったのが、武蔵野鉄道のターミナル駅、池袋の大発展です。

 

 実は池袋は、もともと何もない原っぱにポツンと駅舎があった場所なのです。

 

 お隣の大塚のほうがはるかに大きな町で、池袋は大塚駅の隣の小さな駅という位置づけでした。

 

 しかし康次郎による武蔵野鉄道沿線の住宅開発のおかげで、大きく膨れ上がった沿線住民が一気に池袋に流入し、同時期に開業した東武東上線沿線からの住民も流入して、あっという間に大塚を抜き去り、巨大ターミナルへと成長していったのです。

 

 これは康次郎にとっても予想外の事態だったようで、さしもの康次郎も池袋周辺の土地の買い占めを忘れていたようです。

 

 80年代まで、池袋は駅の巨大化に町の発展が追い付かず、「駅ぶくろ」と呼ばれていました。

 

 しかしその後、池袋の町は順調に発展し、今では副都心の一角を占める巨大な街となっています。ちなみに池袋駅は、乗降客数世界第二位(一位は新宿駅)の巨大ターミナルです。

 

 そして43年、武蔵野鉄道と並行して走り、激しい競合を繰り広げていた西武鉄道(現西武新宿線・国分寺線)を買収します。

 

 この時は武蔵野鉄道が西武鉄道を買収したのですが、康次郎は買収後の会社名を「西武鉄道」としました。買収された先の社員が劣等感を持たないようにするための配慮といわれています。

 

 これに伴い、武蔵野デパートは西武百貨店と改称しました。

 

戦後の土地買収 

 第二次世界大戦が終わり、GHQによる日本国土占領が実施されました。

 

 1947年、GHQは、皇族および華族(当時)の解体に着手します。

 

 この年、皇族華族世襲財産法が廃止され、皇族・華族の免税特権がなくなり、所有する土地に課税されることになりました。

 

 皇族・華族が持つ莫大な土地に高額の課税がなされましたが、当然彼らは払えるわけもなく、持っている土地を売り払うことになります。

 

 このとき日本中に散らばる皇族・華族の土地、特に東京都心の所有地を、買いあさったのが、堤康次郎でした。

 

 康次郎は、この時買い取った皇族・華族の土地につぎつぎとホテルを建て、周辺にリゾート施設を整備していきました。

 

 こうしてできたのが、プリンスホテルです。プリンスは皇族の意味ですね。

 

 1947年、軽井沢(現千ヶ滝)プリンスホテルを皮切りに、麻布プリンス、高輪プリンス、横浜プリンス、新高輪プリンス・・・という具合に、都内一等地につぎつぎとプリンスホテルを建てていき、現在では全国に150余りのプリンスホテルが展開しています。

 

 50年代に入り、高度経済成長を迎えると、一般の国民の購買力が高まり、西武百貨店の売り上げが伸びていきます。

 

 また高級志向の西武百貨店とは別に、1953年、西武鉄道沿線を中心に、食料品や一般雑貨を売るスーパーマーケット、「西友ストアー」(現西友)を設立し、駅前のスーパーとして、着実に売り上げを伸ばしていきました。

 

 同時に衆議院議員としての仕事も軌道に乗り、1953年~54年にかけて、第5次吉田茂内閣の時に、衆議院議長を務めています。

 

西武グループの特徴

 ここまでで「西部王国」の主要事業が大体出そろったわけです。

 

 堤康次郎が一代で作り上げた西武グループを一言で言い表すと、「不動産開発会社」となるでしょう。

 

 一般には西武鉄道や西武百貨店のイメージが強いですが、この当時の西武グループのトップに君臨する親会社は、「国土計画興業(株)」です。

 

 これはかつての「箱根土地」であり、65年からは「国土計画」、92年からは「コクド(株)」となります。

 

 原宿にある国土計画が西武グループの親会社であり、西武鉄道や西武百貨店はその子会社だったわけです。

 

 この国土計画が、西武グループの土地を所有し、それを開発して分譲するのが西武の主要事業であり、鉄道は開発地に人を運ぶため、百貨店は鉄道の駅に人を集めるためにあった、というわけです。

 

 当時、東武鉄道や東急電鉄、小田急電鉄などの私鉄各社が東京近郊でしのぎを削っていましたが、これらの私鉄はあくまで鉄道主体で、鉄道の旅客を増やすために駅周辺にレジャー施設の整備などを行っていました。

 

 それに対して、西武は、土地開発が主体で、開発した土地に人を運ぶために、鉄道を所有していた、ということなのです。

 

事業の継承

 堤康次郎が創り上げたこの「西武王国」を引き継ぎ、二代目総帥に就任したのが、康次郎の三男、堤義明です。

 

 堤義明は、1934年5月29日、東京で生まれ、麻布中・高を経て、早稲田大学第一商学部に進学しました。

 

 そこで学内に「観光学会」というサークルを立ち上げ、仲間たちとともに、日本各地の町おこしを行っていました。

 

 1956年、義明が大学3年の時、父である康次郎から、「冬の軽井沢に人を呼ぶ方法を考えろ」というお達しが出ました。

 

 軽井沢は当時、高級別荘が立ち並び、わが国最大の避暑地としての地位を確立していました。

 

 しかし、冬はさしたる魅力がなく、閑散とした町だったわけです。

 

 この問いに対する義明の解答は、「大規模なスケートリンクを作り、隣にホテルを建てて、温泉にも入れる、冬の一大リゾート施設を作る」というものでした。

 

 「それではお前がそれをやってみろ」ということで、康次郎が出資し、義明と観光学会のメンバーで、軽井沢における冬のリゾートづくりが始まりました。

 

 こうしてできたのが、「軽井沢スケートセンター」です。

 

 400Mの屋外スケートリンクとともに、屋内リンク、テニスコート、ホテルを備えた、一大レジャーランドが軽井沢に出現したわけです。

 

 これによって、冬でも軽井沢に観光客が呼べるようになり、康次郎の義明に対する、後継者テストの第一段階がクリアーとなったわけです。

 

 翌、1957年、大学4年になった義明は、卒業論文を提出しました。その論文のテーマは、どうやって海辺に観光客を集めるか、というものでした。

 

 義明の答えは、「海岸に隣接して、巨大淡水プールを作る」というものでした。

 

 これを聞いた康次郎は「なんで海があるのに、わざわざそのそばにプールを作るんだ。海で泳げばいいじゃないか」と問いかけます。

 

 義明は「ヨーロッパでは海水浴は甲羅干しが主体で、海に入って泳ぐ人はほとんどいません。海岸沿いにプールを作れば、海を見ながら、砂がつかずに甲羅干しができて、プールで思い切り泳げるじゃないですか」と答えました。

 

 康次郎はまたもや、「それならお前がやってみろ」と言って、資金を提供し、義明に海岸沿いの巨大プールの建設を命じました。

 

 こうしてできたのが、神奈川県大磯市にある、「大磯ロングビーチ」です。

 

 

 1957年に開業した、大磯ロングビーチには、海の感覚を再現した、波のプール・流れるプール、高さ10mの飛び込み台を備えたダイビングプール・室内競泳プール(25m・50m)・子供用プールなどさまざまなプールがつくられ、

 

ウォータースライダー・フローライダーも備えていました。

 

 波のプールや流れるプール、ウォータースライダーは今ではどこのプールにもありますが、これを最初に発想して、実現したのが、堤義明だったのです。

 

 この斬新な発想の屋外プールは、大評判となり、大磯の街に観光客がおしかけました。義明はまたもやその斬新な発想で、新たなリゾートを作り出したのです。

 

 この大磯ロングビーチは、79年からのテレビCMの大ヒットとともに、80年代におけるわが国最大の海岸リゾートへと発展していきます。

 

 

 初代キャンペーンガールを飾った、アグネスラムのCMを覚えている方も多いと思います。

 

 また、アイドル水泳大会である『オールスター紅白水泳大会』の収録がここで行われ、10Mの飛び込み台は、タレントの罰ゲームとして使用されていました。

 

 軽井沢スケートセンター、大磯ロングビーチの成功によって、父康次郎のテストに合格した義明は、翌1957年、大学卒業と同時に、23歳にして、西武グループの親会社、国土計画興業の代表取締役に就任します。

 

 次に義明が手掛けたのは、スキー場の開発です。

 

 スキーの最大の欠点は、雪がないと滑れない、ということです。冬にしかできないし、雪の降る山間部に行かないとできない、というのは何とかならないか。

 

 ということで、堤義明が1959年に作ったのが、「狭山スキー場」です。

 

 これはほとんど雪が降らない埼玉県狭山市にある、「室内」スキー場です。

 

 雪はどうすんだ、ということですが、狭山スキー場の雪は、すべて人工降雪機、スノーマシンによって作られた雪です。

 

 雪の降らない屋内の斜面に人工降雪機で雪を積もらせ、夏でもスキーができるようにしてしまおう、という発想です。

 

 この義明の柔軟な発想が、見事に結実したのは、1961年に開業した、苗場スキー場です。

 

 新潟県はもともと豪雪地帯ですが、苗場一帯は、最も山頂に近い部分にあり、雪の量が少ないため、スキー場には不向きといわれていました。

 

 しかしこの一帯は、本州ではめずらしいパウダースノーが降る地域であり、雪質がとてもよかったのです。

 

 義明は、苗場周辺の雪が少ないという欠点を、狭山スキー場で用いた人工降雪機をすべての斜面に設置する、という手段で克服しました。

 

 雪が少ないなら、山の斜面全体に、人工降雪機で雪を降らせ、雪を積もらせてしまおう、という発想です。

 

 大量の人工降雪機を備えた斜面とともに、苗場プリンスホテル、テニスコートを配置し、苗場一帯を一大リゾートホテルとして整備しました。

 

 人工降雪機によって、雪が降らなくても長時間営業が可能になった苗場スキー場は、

特に春スキーのメッカとなり、5月下旬まで営業を続ける年もありました。

 

 こうして苗場スキー場はあっという間に、全国一の集客数を誇るスキー場となりました。

 

 80年代後半には、苗場スキー場を舞台にした原田知世主演の映画『私をスキーに連れてって』のヒットとともに、1シーズンで380万人のスキー客が訪れたこともあります。

 

 80年代の正月3が日で若者が訪れる場所ランキングのトップ3は、明治神宮、東京ディズニーランド、苗場スキー場だったのです。

 

 現在では当時の面影はありませんが、今でも苗場スキー場は、わが国最大のスキー客が訪れるスキー場の地位を維持しています。

 

康次郎の死

 1964年、西武王国を一代で築いた、初代総帥、堤康次郎が死去しました。

 

 康次郎の墓は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にあります。

 

 これは墓というより、巨大な古墳です。明治天皇や昭和天皇の墳墓よりはるかに大きい1万坪にわたる巨大墳墓です。

 

 

 

 写真で見ると、山一個、すべて墓、という感じがわかると思います。

 

 康次郎の遺言によって、西武王国のすべての資産を引き継いだ義明は、翌1965年、国土計画と社名変更した親会社の、社長に就任します。

 

 新たな土地を購入するな、10年間は新規事業をやるな、という康次郎の遺言をしっかり守り、75年まで、義明は沈黙を守ります。

 

 また義明は、1971年、康次郎の七回忌を機に、異母兄である堤清二に、西武百貨店と西友ストアーを割譲しています。

 

 71年以降は、西武グループは義明率いる鉄道グループと、清二率いる流通グループに分かれて、発展していくことになるのです。