笹原シュン☆これ今、旬!!

日本で、世界で、今まさに旬のトピックスをお届けします。政治、経済、文化、世界情勢など、噛み砕いてわかりやすく解説していければと考えています。同時に、日本の在り方、進むべき道についても、示していければと思っております。

日米経済戦争18 堤義明は、日本収奪のためのいけにえとされた!? 日本DSと運命を共にした、西武王国の繁栄と滅亡とは?②

プロ野球への進出

 堤義明が次に手掛けたのは、プロ野球球団の買収です。

 

 欧米では、野球やサッカーのチームを所有する経営者は、ワンランク上の評価を受けるようになっていましたので、義明もそれにあやかろうというわけです。

 

 当時の日本では、サッカーは全く人気がなく、メジャーなプロスポーツといえば、野球しかありませんでした。

 

 とうわけで、プロ野球の球団をのオーナーになろう、と試みたわけです。

 

 堤義明が最初に買収を試みたのは、神奈川県を本拠地とする、セントラルリーグの万年5位球団、「大洋ホエールズ(当時)」でした。

 

 今の「横浜DeNAベイスターズ」ですね。

 

 ホエールズは、川崎球場を本拠地にしていましたが、手狭になり、横浜への本拠地移転を考えていました。

 

 1978年、当時の横浜市長、飛鳥田一雄がこれを歓迎し、横浜公園にあった平和球場を立て直し、市民球場にしてホエールズを受け入れるプランを発表しました。

 

 しかし、当時の横浜市の財政は火の車で、球場の建設費が出せず、計画は暗礁に乗り上げていました。

 

 これを見た義明は飛鳥田に話を持ち掛け、「西武建設に球場建造を依頼してくれれば、費用は1円もかかりません。無料で新球場をプレゼントします」と宣言します。

 

 そんなうまい話あるのか、というわけですが、無料で球場を建設する代わりに義明が提示した条件は、ホエールズの株式の取得と、新たに建造される横浜スタジアムのシーズンシート販売権でした。

 

 横浜スタジアムの株を、一口250万円で販売し、特典としてオーナーズシートと称して、45年間にわたり、スタジアムの席を一席確保する権利を与えるというものです。

 

 義明はこの45年契約のオーナーズシートを550席販売しました。

 

 複数年契約のシートは、当時の日本において前例がなく、そんなもん売れるのか、と言われていましたが、予想に反し、オーナーズシートは発売と同時に完売し、横浜スタジアムの建設費が回収できてしまいました。

 

 完成した横浜スタジアムは、横浜市に引き渡され、横浜市民球場として。大洋ホエールズの本拠地となりました。

 

 義明はこの時、ホエールズの親会社、大洋漁業から球団株の45%を取得し、球団経営に参画することになります。

 

 オーナーズシートの完売で気をよくした義明は、「球場経営はもうかる」と踏んで、自前の球場の建設に着手します。

 

 西武グループの本拠地である、埼玉県所沢市に、「西武球場」の建設を始めたのです。

 

 同時に大洋漁業が持つホエールズ株の残り55%の取得に乗り出します。

 

 建設中の西武球場を本拠地とする、「西武ホエールズ」を作ろうというわけです。

 

 しかしこのタイミングで、大洋漁業の創業オーナー、中部健吉が死亡してしまいます。

 

 大洋漁業グループは親族に分割相続され、ホエールズ株は甥の中部新次郎に相続されましたが、この新次郎が、大洋ホエールズ株の売却を拒否したのです。

 

 こうして西武ホエールズ計画は失敗し、西武球場は完成したものの、中に入れる球団がない、という状態になってしまいました。

 

 この時点で来シーズン開幕まで半年を切っていました。

 

 途方に暮れる義明のもとに、パシフィックリーグの万年最下位の弱小球団、「クラウンライターライオンズ」から、球団売却の話が飛び込んできます。

 

 義明は即座にこの話に乗り、ライオンズ買収に動きます。

 

 しかし、当時の野球協約では、一人の人物が2つ以上の球団の経営に参画することが禁じられていました。

 

 義明はすでにホエールズの株式の45%を取得していますので、これを売却しない限り、ライオンズは買収できないということです。

 

 金額が大きい割に、経営権をもつ50%には達していない、45%のホエールズ株を買おうとする人物はいませんでした。

 

 ここで義明は、ホエールズの試合の放映権が欲しい、マスコミが買うんじゃないか、と思いつき、マスコミ各社とホエールズ株買取の交渉を行います。

 

 結局、ラジオ局のニッポン放送が30%、テレビ局のTBSテレビが15%の株を買うことが決まり、ホエールズ株をすべて売却した義明は、79年シーズン開幕直前で、クラウンライターライオンズの買収に成功しました。

 

 こうして義明の意図に反して、ドタバタのうちに、1979年、「西武ライオンズ」が発足することとなったのです。

 

 「西武ホエールズ」をつくろうとしていたら、いつのまにか「西武ライオンズ」ができてしまったというわけです。

 

 この後、ライオンズは、西武グループの資金力を背景とした、充実した設備と、豊富な選手補強と、義明自身がスカウトした根本陸男の経営手腕によって、どんどん強いチームに変貌していきます。

 

 ついに球団創設4年目の82年、広岡達郎監督の下で、初のリーグ優勝と日本シリーズ制覇を成し遂げます。

 

 西武ライオンズは、82年から88年にかけて、7年連続パ・リーグ優勝を果たし「球界の盟主」と呼ばれるようになりました。

 

 ちなみにこの間日本シリーズでは、85年、バース、掛布、岡田の阪神タイガースに敗れましたが、あとはすべて勝利し、3連覇を2回、記録しています。

 

 

 

 86年には、甲子園で通算13本塁打の記録を持つ、PL学園の清原和博の獲得に成功し、秋山、清原、デストラーデの強力打線で、ペナントレース優勝の常連となり、常勝軍団として、80~90年代のプロ野球界に君臨することとなりました。

 

サンシャインシティの建設

 堤義明は、1978年、西武鉄道のメインターミナル、池袋駅の東口に、「サンシャインシティ」を建造します。

 

 これは、60階建てのオフィスビル「サンシャイン60」を中心に、ショッピングセンター、水族館、プラネタリウムを含む、総合レジャー施設です。

 

 

 このサンシャインシティのある土地は、実は戦後、A級および、B・C級戦犯が収容された「巣鴨プリズン」があった場所で、隣接する東池袋公園は、戦犯の処刑が行われた処刑台のあった場所です。

 

 サンシャイン60は、ここで処刑された60人の戦犯たちの墓標として建てられたもので、大日本帝国海軍を基盤とする日本DSが、陸軍への罪滅ぼしのために建てた、世界最大の墓標です。

 

 このあたりのことは、当ブログの以下の記事で詳しく説明しています。ぜひご一読ください。

 

 

shunsasahara.com

 

80年代の覇者

 

 西武グループが最も隆盛を誇ったのは、80年代後半、バブルの全盛時代でしょうか。

 

 この間にプリンスホテルは155か所にまで増え、それに付随するリゾートは全国に広がっていきました。

 

 その後義明は、冬季オリンピックの誘致に情熱を傾けます。

 

 89年には、日本オリンピック委員会(JOC)の初代委員長となり、日本における2度目の冬季オリンピック開催を誘致します。

 

 この努力は実を結び、1998年、長野オリンピックが開催されることになります。

 

 もちろん会場および周辺施設はすべて義明が作り、雪はすべて、苗場スキー場で培われた、人工降雪の技術によって作り出されています。

 

 兄の清二が相続した、西武流通グループも、西武百貨店と西友ストアーに加え、ちょっと高級な百貨店である「PARCO」や、コンビニエンスストア「ファミリーマート」の成功によって、80年代後半から90年代にかけて隆盛を誇ることになります。

 

グループの解体

 この後、90年代初頭にわが国はバブルの崩壊を迎え、以後30年にわたるデフレの時代を迎えることになります。

 

 しかし、日本国内では、西武グループはバブルの崩壊を無傷で乗り切り、さらなる発展をし続けているとみられていました。

 

 90年代半ばまで、堤義明は大富豪世界ランキングの1位であり続け、93年にはアメリカのフォーブス誌が世界一の富豪としてたたえることとなります。

 

 この西武グループは、小泉純一郎が政権を取ったのち、2004年3月から11月のわずか半年余りの間に、あっというまに、ばらばらに解体されてしまうのです。

 

 ことの発端は、2004年3月1日、グループ企業の一つ、西武鉄道の専務、伊倉誠一ら6人が、商法違反で逮捕されたことです。

 

 これは当時有名な総会屋、芳賀竜臥に対し、西武鉄道が利益供与を行ったという罪です。

 

 総会屋というのは、最小単位の株式を取得して、株主総会に出席し、経営陣を告発して総会の進行を妨げる人たちです。

 

 経営陣は、総会を無事に終わらせたいので、事前にお金を払い、総会で発言しないでもらう、という行為が横行していました。この行為が商法で禁止されているわけです。

 

 芳賀竜臥の場合は、直接金品を渡したわけではなく、2001年1月、系列会社の西武不動産販売を通じて、西武鉄道所有の土地を安価で買い取り、それを転売させて利益を得た、ということでした。

 

www.nishinippon.co.jp

 

 伊倉誠一専務らの逮捕を受けて、2004年4月、西武鉄道の戸田博之社長が辞任し、国土交通省から天下りしていた小柳皓正専務が社長に就任します。   

 

 そして、4月14日、堤義明が、西武鉄道会長を辞任します。

 

 これは総会屋への一連の利益供与事件の責任を取って辞任、という形でしたが、この時点ではまだ、西武グループ全体への影響は微々たるものでした。

 

 堤義明はまだ、西武グループ全体の親会社であるコクドの社長で、株式の過半数を持つオーナーだったからです。

 

 しかし、この前後から、新聞、雑誌、テレビなどのマスコミは、連日西武グループについてのある問題を報じ始めます。

 

 それは西武グループ特有の、「借名株」と呼ばれる問題でした。

 

仮名株問題の紛糾

 西武鉄道は、東証一部に上場していましたが、親会社であるコクドは総株式の36%を保有し、堤一族や他の西武グループ企業の株で55%となり、のこりの45%は、一般の個人・企業投資家の保有であるとされていました。

 

 しかし、この残りの45%を保有する個人株主が、実はコクドの社員であり、しかも保有している本人が、株式保有の事実を知らないまま、コクドの内部で、保有手続きが勝手になされていたのです。

 

 コクド社員の名前を勝手に使って、一般株主を装って、株式を所有させられていた、ということで、「借名株」と呼ばれています。

 

 仮名株の存在が公となったのは、2000年7月末に、堤康次郎の金庫番だった、中嶋忠三郎の息子、中嶋康夫が、父の死後、相続した父の貸金庫を開けたことがきっかけでした。

 

 そこには父、中嶋忠三郎の名義の、国土計画興行(株)の一千株の株式保管証が入っていました。

 

 康夫はコクドに問い合わせ、一千株の株式と引き換えようとしますが、コクドの答は「そのような株式は存在しない」、というものでした。

 

 そんなばかな、ということで、2002年3月20日、中嶋康雄は、父忠三郎の相続人として、コクド(株)に対して一千株の株主であることを確認する「株主権存在確認請求」を東京地裁に提訴します。

 

 この裁判の過程で、コクドの答弁は二転三転します。株式が存在しないと言っていたのが、存在していたが、既に売却されているになり、株数も1千株から、度重なる増資で、1万8千株まで増えていて、売却相手も何度も変わりました。

 

 コクド側は増資や売却の際の、書類を提出してきましたが、そこにある署名の筆跡は、忠三郎とは別人であり、印鑑も、忠三郎の印鑑とは全く違うものでした。

 

 結局、この裁判は、証拠書類をそろえてきたコクドの勝利となりましたが、判決で裁判官が証拠書類偽造の可能性がある、と述べるという、異例の判決となりました。

 

 この裁判は一般に公開されていましたので、警察やマスコミが、西武グループの株の操作について疑いを抱き、一斉に捜査・取材に入って、だんだんと「借名株」の実態が明らかになっていったのです。

 

 結局、西武グループの株式の個人株主は、ほとんどすべて、親会社のコクドの社員であり、本人自身が知らないうちに、株式取引書類が偽造され、株式自体はコクドがすべて管理している、ということが明らかになってきます。

 

 印鑑は堤康次郎の親戚が経営する石田印房が作成し、康次郎の自宅の一室に、社員全員分の偽造された印鑑が並んでいました。

 

 この印鑑は康次郎の死後、西武鉄道本社の一室に移され、厳重に管理されていました。

 

 名目上の株主となったコクドの社員には、株式保有の事実が知らされることはなく、株主総会への招待状も送付されず、株式の配当は、すべて、コクドが懐に入れていました。

 

 この借名株の手法によって、書類上は50%ぎりぎりの株を保有するかに見えたコクドは、実はグループ企業全部の95%以上の株式を保有していた、というわけです。

 

 株式市場に株式を上場するには、関連企業、個人の株の割合は80%以下であること、と商法に規定されています。

 

 西武鉄道における名目上のコクドの保有割合は55%ですが、借名株をコクドの所有とカウントすると、保有割合が95%となります。

 

 これによって、西武鉄道は、株式上場の資格がなくなってしまうわけです。

 

 借名株の問題が報道されると同時に、証券取引委員会が、西武鉄道の上場廃止の審議に入ります。

 

 そして10月13日、東京プリンスホテルにて、堤義明自身が記者会見を開きます。

 

 すべての疑惑を否定するだろうと思われていた記者会見ですが、なんと、堤義明は、会見の席で、西武鉄道が有価証券報告書の株主を過少記載していたことを認めてしまいます。

 

 同時に堤義明は、西武グループにおける全役職の辞任を発表しました。

 

 オーナー辞任の大混乱の中、西武グループ各社は事態を収拾すべくもがきますが、もはやどうにもなりません。

 

 ついに11月12日、西武鉄道の小柳皓正社長は、「借名株」問題で釈明会見を開きます。

 

 報道各社は配布された資料を読んで絶叫しました。なんとそこには、借名株の行われた経緯とその手法が、すべて記載されていたのです。

 

 釈明会見といいながら、自白会見となってしまったこの会見の4日後、2004年11月16日、西武鉄道の上場廃止が決定しました。

 

 この3日後、借名株の事務処理を統括していた(株)コクドの木内保次長が、入水自殺します。

 

DSによるグループ資産の強奪

 西武鉄道の上場廃止は、西武グループ各社の経営に致命的な打撃を与えました。

 

 西武グループは、2004年現在で、1兆2000億円を超える、銀行からの借入金で運営されていました。

 

 この莫大な借入金の担保となっていたのは、西武グループが保有する莫大な土地と株式です。

 

 土地については、バブル崩壊後に大幅に値下がりしていたので、担保力はだいぶ落ちていました。

 

 一方、株式については、西武鉄道をはじめとする関連会社の株が、高値で安定していました。

 

 当時西武鉄道株は1000円前後で推移していましたが、これは他の鉄道会社の3倍以上の高水準です。

 

 しかし、一連の事件で、西武鉄道や近江鉄道、伊豆箱根鉄道などの関連会社が上場廃止となり、株式に値段がつかなくなってしまいました。

 

 これによって、西武グループは、6000億円を超える追加担保を要求されましたが、もちろん用意できるはずはありません。

 

 銀行によって、土地の抵当権が執行され、資産は競売に付され、グループ各社はバラバラになっていきます。

 

 その資産を安値で買い叩いたのは、もちろんグローバルDS企業です。

 

 国土計画は倒産し、プリンスホテルが外国資本に買収され、西武ホールディングスとなって、グループ各社を統括するようになります。

 

 結局西武グループが持っていた、軽井沢や箱根、伊豆などの広大な土地、プリンスホテルを中心とする日本各地のリゾート施設は、すべて、グローバルDSの手に落ちてしまった、というわけです。

 

 ちなみに堤義明の後に、長者番付世界一となったビル・ゲイツは、この時手に入れた軽井沢の土地に、6000坪を超える広大な別荘兼地下施設を建設しています。

 

 

 この地は軽井沢・千ヶ滝地区、すなわち堤康次郎が最初に買い付けた、西武グループ発祥の地です。最初のプリンスホテルも、この近くに建てられています。

 

日本DSの最期 

 堤康次郎、義明親子については、現在でも評価が分かれています。

 

 しかし、明治以降の日本DS対グローバルDSの戦いを重ね合わせてみると、また違った側面が見えてきます。

 

 堤康次郎は、明らかに日本DSを代表する実業家でした。

 

 早稲田大学を卒業して、出版社をやって失敗し、最初に軽井沢の土地80万坪を30万円、現在の3億円で買い付けていますね。

 

 この3億円の資金はどこからでたのでしょうか?

 

 この資金は、三菱を中心とする銀行からの借入金です。24歳で大学を出たばかりなのに、なんで銀行から3億円を借りられたのでしょうか。

 

 それは強力な連帯保証人がいたからです。このとき康次郎の保証人となったのは、桂太郎、大隈重信、後藤新平です。明治の元勲がこぞって保証してくれたのです。

 

 なんで、24歳の青年に明治の元勲が保証してくれるの?ということですが、もちろん康次郎自身がもともと李家に連なる家系で、これらの人物とは親戚だからです。

 

 康次郎はこの後自らも衆議院議員となり、日本DS政府のバックアップのもとに、日本DSとともに、自らの事業を拡大していったわけです。

 

 息子の義明が、日本DSを代表して、サンシャインシティを建設し、東条英機の墓標を立てたことなどに、日本DSとの結びつきが如実に表れていますね。

 

 借名株については、二次大戦終戦間際から行っていたと思われます。

 

 戦後、GHQによる財閥解体があり、株式保有でつながっていた企業は軒並み分割、解体されました。

 

 ライバルだった後藤慶太の東急電鉄は、この時解体され、東急、小田急、京浜急行に分割されてしまっています。戦前はこの3つはすべて東急だったのです。

 

 しかし、借名株で名目上株式保有割合の少ない西武グループは解体を免れ、一体化したまま、その後の発展軌道に乗ることができたわけです。

 

 また義明に経営を引き継ぐときも、個人資産をすべて会社の資産に変え、借名株で各社の連結を弱く偽装することができたので、相続税がほとんどかからず、西武グループは巨大企業であり続けました。

 

 株式会社が上場するときは、関連企業が持つ株式の割合を低くし、財務状態を公開して、だれでも株を買えるようにしろ、という制度は、名目上は、投資の透明性を保つためということになっていますが、

 

 結局は、伸びてきた企業を、グローバルDSが自由に乗っ取れるようにしろ、という制度です。

 

 堤一族は、これに異を唱え、グローバル企業に乗っ取られることのない、強力な結びつきの個人企業を作ろうとしたというわけです。

 

 そのため、バブル崩壊後も、グローバルDSは、西武グループに手を出すことができなかったのです。

 

 業を煮やしたグローバルDSは、おそらくCIAを使って、西武グループ内部の株式保有を調査していたのでしょう。

 

 しかし日本DSが政権を取っていた時代は、日本DS政府の保護があるため、堤家に手を出すことはできなかったのです。

 

 そして、小泉純一郎が首相となり、グローバルDSが政権を取った瞬間に、グループ解体を実行した、ということでしょう。

 

 最後に西武鉄道の上場廃止を決定づけた記者会見を行った、西武鉄道の小柳社長は、国土交通省からの天下り社長です。

 

 この時、官庁はすべてグローバルDSの手に落ちていましたので、DSの命を受けて、わざと借名株を認めてしまう会見をやったのでしょう。

 

 西武グループと堤一族は、日本DSとともに成長し、その敗北とともに滅びた、グローバルDSにいけにえとしてささげられた一族であると、いうことができます。

 

金持ちの資質

 堤義明の後、95年から、長者番付世界一となったのは、マイクロソフト社のビル・ゲイツでした。

 

 彼らはともに金持ちではありますが、あとに残したものは大きく違います。

 

 ビルゲイツは世界中にウィンドウ搭載のコンピューターを普及させたじゃないか?

と言われる方も多いと思います。

 

 しかし、マイクロソフト社のOSは、日本のトロンを123便事件によって葬り去って作られたものであり、マイクロソフト社の技術はすべて、他の技術者からの強奪によって賄われたものです。

 

 ビルゲイツがいなかったとしても、マイクロソフト社がなかったとしても、他の技術者・会社によって、今より高性能のコンピューターが世界中に普及していたことでしょう。

 

 ビルゲイツも、現在GAFAと呼ばれている会社の経営者たちも、しょせんは民衆から収奪し、自らを富ませる簒奪者にすぎません。

 

 一方の堤一族はどうでしょうか。たしかに、西武グループは解体され、資産はグローバルDSの手に落ちてしまいました。

 

 しかし、堤一族は自らも大きな富を得ましたが、同時に日本の人々に、多くの街や施設を残しました。

 

 かれらが作った街やレジャー施設は、今でも日本中で、発展し、多くの人を集めています。

 

 軽井沢も、箱根も、伊豆も、国立や小平、池袋も、そのほか日本各地にあるリゾート地も、彼らがいなかったら、今のように発展してはいなかったでしょう。

 

 堤一族は、自らの発展とともに、周りの人々にも利益を分配し、発展させていく、真の金持ちとしての資質を持っていた人々であったと、言えるのではないでしょうか。