戦犯が収監された巣鴨プリズン
第二次世界大戦終了後、日本はGHQの統治下におかれました。
マッカーサー元帥の指令の下、戦時中の政治家や陸軍の士官がA級戦犯、B・C級戦犯として逮捕され、収監されました。
戦犯たちの収監場所として東京拘置所がGHQに接収され、巣鴨プリズンと呼ばれることとなりました。
巣鴨プリズンのあった場所は巣鴨ではなく、豊島区東池袋3丁目、池袋駅の東口です。
すぐ南には雑司ヶ谷霊園があります。
巣鴨プリズンは1952年に返還され、巣鴨刑務所となり、1971年に小菅に移管され東京拘置所となりました。
その跡地は再開発され、1976年サンシャインシティとなってオープンしました。
サンシャインシティ内には60階建ての高層ビル「サンシャイン60」があります。池袋駅を出た瞬間に正面に見えるビルです。
この中央のビルがサンシャイン60です。サンシャインシティには水族館やプラネタリウムもありますので、訪れたことのある方は多いと思います。
これが地上1階の入り口から見たサンシャインシティです。
右手のビルがサンシャイン60、左手がサンシャインシティプリンスホテル、奥にあるのが水族館やプラネタリウムがある、ワールドインポートマートです。
手前の階段がスペイン階段で、この左側には東池袋中央公園が隣接しています。
ビル同士の位置関係はこんな感じです。地図上の左上の緑地が東池袋中央公園です。
戦犯たちが収監されていた施設は、ちょうど現在のワールドインポートマートおよび文化会館ビルの位置に立っていました。
東条英機などのA級戦犯が収監されていた独房は、ワールドインポートマート&文化会館の3階部分にありました。
現在は展示場として使われているようです。
東条英機の独房があったのは、巣鴨プリズンの3階の北東の角部屋です。ここから顔を出す東条英機の姿が、何度も目撃されています。
現在、その場所に行ってみると、謎の茶色い塔が立っています。エレベーターかなと思いましたが、そうではないようです。
行ってみようとすると、どの通路も立ち入り禁止になっていて、なかなか入れません。
地下駐車場から回って、やっと到達できました。
しかし、この塔は四方が壁でどこからも中に入ることができません。
おそらく東条英機の独房を、実際あった位置に再現して、壁で封印しているのでしょう。
戦犯たちの処刑場
巣鴨プリズン付属の処刑場は、現在サンシャインシティの隣の、東池袋中央公園となっています。
この公園は猫が多いことで有名です。
中央には、死者の魂を弔うかのような、大きなカスケードがあります。
カスケードの前にはベンチがあります。なんだか変な形をしていますね。中央が張り出して反り返り、端っこの石もまっすぐではなく、斜めになっています。
私は学生時代によく、このベンチに座って読書をしていました。
「なんでこんな変な形なんだろう」と思ったのを覚えています。
これが東池袋中央公園の案内図です。
写真の青丸の位置に、「永久平和を願って」と書いた石碑があります。
これがA級&BC級戦犯がここで処刑されたことを示す石碑です。
石碑の裏面には碑文があります。碑文には、
「第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した一部の刑が、この地で執行された。
戦争による悲劇を再び繰り返さないため、この地を前述の遺跡としこの碑を建立する。
昭和五十三年六月」
と、刻まれています。
巣鴨プリズンには1600~1800名の戦犯たちが収監されていました。
そのうち処刑されたのは、A級7名およびBC級53名、あわせて60名です。
1944年、東京拘置所時代には、リヒャルト・ゾルゲや尾崎秀実もここで処刑されています。
実際に絞首台があった場所は、石碑のちょっと北側、地図上の赤丸の地点です。
石畳が左に曲がり、不意に切れているのがわかりますね。その先が、戦犯たちが処刑された絞首台のあった場所です。
すぐ横には、カスケード用の給水ポンプがあります。
この給水ポンプにはホースがぐるぐる巻きになって巻き付けられています。
これは絞首刑に使われた縄を象徴しています。
「ここで絞首刑が行われたんだよ」、と示してくれているわけです。
この絞首台の地点から、真正面にサンシャイン60が高くそびえたっているのが見えます。
まるで巨大な墓石のようです。
そうです、このビルこそが、ここで処刑された戦犯たちを弔う、世界最大、地上60階の巨大な墓の墓石なのです。
ちなみに裏の世界では、ニコニコマークは「処刑」を表します。
一時期、東京上空に、自衛隊機によってニコニコマークが描かれていたことがありますが、あれは「処刑が終わったよ」という意味です。
東池袋中央公園は、公園の形そのものが、巨大なニコニコマークになっています。
地図の黄色い縁の部分を見てみましょう。横向きの巨大なニコニコマークになっていますね。
2本の木が目。そしてカスケード前のベンチが口になっています。
あのへんな形のベンチは、ニコニコマークの口の形になっていたというわけですね。
東池袋中央公園の形そのものが、「ここで処刑が行われたよ」ということを示していたというわけです。
遺骨はどこに!?
東条英機の墓は、サンシャインシティから南に徒歩10分ほど離れた、雑司ヶ谷霊園にあります。
この霊園は、夏目漱石や、ジョン万次郎、永井荷風、大川橋蔵などが埋葬されていることでも有名です。
霊園自体は広大ですが、東条英機のお墓は、都電の雑司が谷駅から霊園に入って、入口から20メートルぐらい歩いて、すぐ左のところにあります。
35番の番号が振られた案内板が立っています。
実際のお墓はこんな感じです。ちょっと前までは墓石自体が立っていませんでした。
しかし、正面に立つと、墓の位置からちょうど墓石の場所にサンシャイン60がそびえたっているのがわかります。
現在では木が邪魔になり、手前にちょっと高いビルが立って見えにくくなっていますが・・・。
サンシャイン60が墓石であることがよくわかりますね。
ただ、雑司が谷霊園のお墓からは全く霊気が感じられません。
東条英機の遺体および遺骨については、おそらく別の場所に安置してあると思われます。
世界最大の墓はどこ!?
以上のように、A級およびBC級戦犯が収監されていた巣鴨プリズンは、その後サンシャインシティに姿を変えました。
処刑場は公園として保存され、石碑がたてられ、その前に地上240メートルの巨大な墓石、サンシャイン60が建てられました。
サンシャイン60が墓石であるという事実は、その名前の中にもはっきりと示されています。
「サンシャイン」は「サンシャインフラッグ」すなわち「旭日旗」です。
いわずと知れた、大日本帝国の軍旗ですね。
また「60」は、この地で処刑されたA級戦犯7名、BC級戦犯53名、合計60名の人数を表しています。
「サンシャイン60」とは、
「大日本帝国陸軍の英霊60柱、ここに眠る」
という意味なのです。
世界最大の墓は、ピラミッドでもなく、仁徳天皇陵でもなく、始皇帝陵でもなく、東条英機の墓だった、というわけですね。
サンシャイン60は、地上240メートルの高さで、1976年から1990年まで、日本国内で最も高いビルでした。
ちなみに、池袋は標高251mの高台にあります。サンシャイン60ビルは高さ240mなので、標高はあわせて451mです。
これは海面すれすれ5mにある東京タワー333mを抜いて、1976年から90年まで、アジアで一番標高の高い位置にある建物だったのです。
だれが作ったの?
それでは、だれがこのようなことを考え、国民の目を盗んで実行したのでしょうか?
サンシャイン60の正式名称は「国土池袋ビル」です。建設したのは、当時世界一の大富豪だった、堤義明率いる、西武鉄道グループの親会社「国土計画」です。
サンシャインシティ内にプリンスホテルがあることからもわかりますね。
堤義明は、海軍を母体とする日本DSの一員で、その背後には当時の日本DSの指導者、中曽根康弘がいました。
海軍は、天皇と共謀し、アメリカに降伏して太平洋戦争を勝手に終わらせ、戦後の主導権をとるとともに、陸軍の幹部たちを一掃しました。
東京裁判で処刑された軍人はすべて陸軍で、海軍は一人もいないのです。
その罪滅ぼしのために、処刑された陸軍の軍人たちの慰霊のために、旧海軍勢力である日本DSが、総力を結集して、世界最大のお墓を建設したものと思われます。
このお墓が、長きにわたって、アジア最高峰だったことからも、これはわかります。
自分たちが滅ぼした相手の墓を建て、それを国内最高峰にする、というのは、日本人独特の感覚で、過去に何度も例があります。
古代において、大和朝廷が、国譲りの名目で出雲を滅ぼし、併合した時、処刑された出雲の国王、大国主尊のために巨大な出雲大社を建立しました。
これは実に地上96メートルの高さを誇り、建て替えられて通常の寺社になるまで、奈良の大仏殿や京都御所を抑えて、1500年以上、国内最高峰を誇りました。
自分が滅亡させた国の人々の慰霊のために、高い建物を建て、それを国内最高峰にするというのは、神話の時代から日本人がやっていたことなのです。
その後、85年に123便事件が起きて、91年に、バブル崩壊後、新宿にDS都庁ビルが建てられ、これがサンシャイン60を抜いて、国内最高の高さとなりました。
これは戦中の民衆派から戦後に日本DSに覇権が移り、ついにグローバルDSが覇権を握ったことを象徴していると、言えるのではないでしょうか。