オランダとの闘い
さて、それでは他の方面に進出した大日本帝国海軍はどうなったのでしょうか?
インドネシアは当時はオランダ領東インドと呼ばれ、オランダの植民地となっていました。
この地はそもそもナツメグ・丁子・肉桂などの香辛料の大産地でした。オランダは1602年に、オランダ東インド会社を設立し、この地の植民地経営を本格化させ、香辛料の収奪を行いました。
19世紀初頭には、悪名高き、強制栽培制度を施行し、この地で、サトウキビ、藍、茶、コーヒー、タバコなどの商品作物を栽培させ、利益を上げました。これらの商品作物の強制栽培によって、食料が生産できなくなったため、大量の餓死者が出ました。
オランダ領東インドの人々は何度も反乱を起こしましたが、そのたびに、オランダ東インド会社軍に鎮圧されてしまって今いました。
さらに19世紀末には、スマトラ島東岸で、油田の採掘に成功し、現在のロイヤル・ダッチ・シェル社の大発展につながりました。
大東亜戦争直前の時点で、オランダ領東インドの石油の生産量は、800万トン以上となっており、これは当時の日本の年間石油消費量500万トンを超えていました。
アメリカからの石油の輸入を止められていた日本は、石油を確保することが急務となっており、この地の石油を手に入れることが海軍南進の大きな動機の一つとなっていました。
蘭印作戦の開始
大東亜戦争開戦以前に、1940年5月の時点で、本国オランダがナチスドイツに占領されて滅亡しており、オランダ領東インドは本国から切り離されて、東インド会社の守備軍が独自に防衛を行っていました。
マレー沖海戦で勝利を収めた日本軍は、翌1942年1月11日、オランダ領東インドへの侵攻を開始します。これが蘭印作戦です。
タラカン島から始まった作戦は、その後、ボルネオ島、スマトラ島、バリ島、ジャワ島を制圧し、ジャワ島に迫りました。
2月27日、アメリカ・オランダ連合艦隊とのスラバヤ沖海戦に勝利し、3月1日にはバタビア沖海戦に勝利した日本軍は、ジャワ島に上陸します。
3月8日、日本軍はバンドン要塞を陥落させ、10日、バタビア(現ジャカルタ)に入城、オランダ領東インド全域の制圧に成功します。
日本のインドネシア統治
この後、日本は1945年8月までインドネシアを統治します。この統治は他の東南アジア地域とは一味違ったものになりました。
インドネシアは、何度もオランダへの反乱を行っており、国内にインドネシア独立を目指す勢力と、独自の軍隊が存在していました。
また非常に民度が高く、教育を受けた市民がたくさんいました。
日本は最初はインドネシアを直接統治するつもりでしたが、これを見て方針を変換し、インドネシア人の手で、この国を独立させ、国家を運営する手助けをすることにしました。
1927年に結成されたインドネシア国民党の指導者で、、翌28年に「青年の誓い」を掲げてオランダと戦って流刑になっていた、スカルノを助け出し、彼の軍隊に、日本式の厳しい軍事教練を施しました。
ちなみにデヴィ夫人という方は、このスカルノの第3夫人です。
さらにはこの地の住民が使用していたインドネシアという国号を認め、これを公式に使用しました。
日本は他の地域の当地で行ったように、日本資本によるインフラ整備、産業振興、教育の整備はもちろんインドネシアでも行っています。
他の地域では教育は初等教育中心で、現地の言語の読み書きを教えていました。
しかしインドネシアでは、日本は高等教育に力を入れました。日本は、官吏養成学校、士官学校、医科大学、工業学校、農林学校、商船学校などを次々に開設して、3年間のうちに10万人以上の現地エリートの育成に成功しました。
これらの人々は、独立後に国家の中心を担う人材となりました。
日本はインドネシアを同法として独立させ、ともにアメリカと戦ってくれる仲間として迎えようとしていたのです。
インドネシア独立準備
日本の手によって、インドネシア独立の準備は着々と行われていきました。
日本は1944年9月3日にはインドネシアの将来の独立を認容する「小磯声明」を発表しました。
さらに1945年3月にインドネシア独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させました。同年8月7日スカルノを主席とする独立準備委員会が設立され、その第1回会議が18日に開催されることになっていました。
インドネシア独立戦争
しかし、8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を行ってしまったため、この会議は中止となりました。
この後、オランダが宗主国として再びインドネシアを統治することになりましたが、スカルノはこれにかまわず、8月17日、インドネシア独立宣言を発します。
この時の独立宣言の日付は、「5年8月17日」となっています。「5年」というのは、皇紀2605年のことです。
皇紀は初代神武天皇即位から数えた年号で、当時の日本で広く使われていたものです。
この直後から、戻ってきたオランダ軍との間に、インドネシア独立戦争が勃発します。
この独立戦争には、大東亜戦争終戦後、現地に残された旧日本兵3000人が、インドネシア側でともに参戦しました。
彼らはインドネシア軍に武器・弾薬を提供し、自らも最前線に立って、オランダと戦い抜き、実に1000人がこの戦いで戦死しています。
スカルノやハッタを中心とするインドネシア独立軍は、粘り強く戦い抜き、イギリス・オーストラリア・アメリカに外交使節団を送り、国際連合にも働きかけ、ついに1949年12月、ハーグ円卓会議にて、オランダから無条件独立を勝ち取りました。
スカルノは初代大統領に就任し、翌1950年インドネシア憲法が制定され、議会制民主主義の国家として国家運営をしていくことになりました。
インドネシア独立に際しての日本の役割
さて、このインドネシア独立に際して、日本が果たした役割について、党のインドネシア国民はどのように考えているのでしょうか。
プン・トモ、インドネシア情報相が、1957年に来日した時の言葉は以下のようなものでした。
「我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。インドネシアの場合は、350年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりを見て、アジア人全部が自信を持ち、独立は近いと知った。そもそも大東亜戦争はわれわれの戦争であり、われわれがやらねばならなかった戦いであった。」
モハメッド・ナチール 元首相は次のように述べています。
「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は、私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。」
日本は私利私欲のためではなく、アジアの植民地の人々の幸せを願って、命を懸けて、植民地解放のための戦いを遂行しました。
その思いが、今でもインドネシアの人々の心の中に伝わっているのがわかると思います。
特にインドネシア独立戦争に際して、自ら従軍し、1000人もの戦死者を出し名がら最後まで戦い抜いた、残留日本兵の方々には、本当に頭が下がります。
もしも日本がインドネシアを支配して収奪するために戦争を行ったのだとしたら、本国の幸福とともにこれらの人々はさっさと逃げ帰ってしまっていたでしょう。
日本が本当にインドネシアのためを思い、現地の人々を幸せにしようと考えていたからこそ、彼らは現地に踏みとどまり、命を懸けて戦ったのです。
これについて、サンバス、元復員軍人省長官は次のように述べています。
「特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず、インドネシア国軍とともにオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。」
現在でもインドネシアでは、毎年8月17日の独立記念日に、盛大な独立記念祭が行われています。
そこでは日本語の歌や、日本をたたえる歌が歌われ、旧日本軍の紛争をした男性が、インドネシア国旗を掲げます。インドネシアの人々は、今でも自分たちを独立に導いた日本に対する、感謝の念を抱き続けています。
植民地解放のために命をささげた、日本の思いは、今でもインドネシアの人々の心の中に、息づいているのです。