笹原シュン☆これ今、旬!!

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二次大戦の真実9 日本は第二次世界大戦に勝利していた!? 大東亜戦争の帰趨とその後⑤ パラオ独立と植民地の消滅。

相次ぐ植民地の独立

 大東亜戦勝終結後、アジア・アフリカの植民地は相次いで独立を達成しました。

 

 二次大戦終了直後の1946年、フィリピンがアメリカから独立。同年、ヨルダンがイギリスから独立。翌47年、イギリスから、インド、西パキスタン(現パキスタン)および東パキスタン(現バングラデシュ)が独立。

 48年、イギリスからビルマ(現ミャンマー)、セイロン(現スリランカ)およびイスラエルが独立。49年には、フランスからラオスが、オランダからインドネシアが独立しています。

 

 その後も植民地の独立は続きます。1953年、フランスからカンボジアが独立。54年、同じくフランスから、ベトナム独立。56年には、アフリカにおいて、イギリスからスーダン、フランスからチュニジアとモロッコが独立。58年にはフランスからギニアが独立。

 その後、60年にはアフリカでカメルーン、セネガル、マダガスカル、コンゴ、コートジボワール、ナイジェリアなど多くの国々が独立し、この年はアフリカの年と呼ばれるようになります。

 その後も植民地の独立は続き、結局1994年、最後に残った植民地であるパラオがアメリカから独立し、地球上に植民地はなくなるのです。

 

大東亜戦争とパラオの独立

 パラオは日本列島のちょうど真南、フィリピンとパフ亜ニューギニアの中間あたりの太平洋上に浮かぶ、島国です。

 

 

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 ここはそもそも16世紀からスペインの植民地となっていました。この時スペイン人が持ち込んだ天然痘によって、パラオの人口の90%が死んでしまったといわれています。

 

 その後、米西戦争に敗北したスペインは、パラオをドイツに売却します。1899年以降、パラオはドイツ領ニューギニアの一部となります。

 

 このドイツによる統治は極めて過酷なものでした。

 

 ドイツは、「産業振興」と称して、ココナッツ・タピオカの強制栽培、リン鉱石の強制採掘を行いました。しかしインフラ整備、教育などには、全くの無関心であり、現地の人々の義務教育すら行いませんでした。

 

 過酷なドイツの統治に対して、各地で反乱が勃発します。当時の様子を知るパラオ人の方は次のように述べています。

 

「ポンペイ島では、強制労働への反発からドイツと戦争のような事態になりました。この件ではドイツ人の知事も殺されました。パラオの人も反乱を起こしました。あんまりひどい扱いを受けましたからね。ドイツ人はパラオの人を処刑する時はみんなが見ている前でやるんです。反乱を起こしたうちの3人のパラオ人が撃たれた。それをパラオ公園にある大きな木に吊るしたんです。日本人はそんなことしませんでした」

 

日本による統治 

 パラオの運命の転機となったのは、第一次世界大戦でした。日本は連合国の一員としてドイツに宣戦布告、パラオを含むドイツ領ニューギニアを占領します。

 

 戦後、1919年、パリ講和会議において、パラオは日本の委任統治領となりました。ここから1944年まで、パラオは日本による統治を受けることになります。

 

 日本による統治はとても穏やかなもので、例によって、日本から資金を流入させて、インフラ整備、産業振興、学校・病院の拡充が行われました。日本統治の間にパラオの人口は、2万人から5万人に増加しました。

 

 パラオの統治において特筆すべきことは、日本から多数の日本人がパラオに移住し、現地の人々と一緒に生活していたということです。

 

 現地の子供と日本人の子供が、学校で机を並べて学習し、先生はパラオ人と日本人に区別をつけず、どちらも同じように接しました。

 

 日本人の移住者はパラオ人を自宅に招き、家族ぐるみの交流を行いました。スペイン、ドイツの統治時代にはパラオ人が宗主国の人の自宅に入ることなど考えられないことだったので、パラオ人は驚きました。

 

ペリュリュー島の戦い 

 平和だったパラオも、大東亜戦争がはじまり戦況が進んでいくと、ついに戦火に巻き込まれることになります。

 

  開戦当初、快進撃を続けていた日本は、42年6月のミッドウェー海戦以降、アメリカ軍の反抗を受けることになります。

 

 44年6月のマリアナ沖海戦で、ほぼすべての空母を失ってしまった日本は、アメリカの航空戦力に対抗するすべがなくなります。

 

 サイパン、グアムを占領したアメリカ軍は、9月15日、パラオに迫ります。パラオにおいては主にペリュリュー島を舞台に、10000人の日本軍と、48000人のアメリカ軍との間に死闘が行われました。

 

 これに先立ち、パラオの住民は、自分たちによくしてくれた日本軍とともに戦うと申し出ます。

 

 しかし、日本軍はこの申し出を断り、パラオ住民を洞窟に避難させ、単独でアメリカ軍に立ち向かいます。

 

 結局72日間の死闘の末、日本軍は全滅し、パラオはアメリカ軍の手に落ちましたが、この戦いで死んだパラオ人は一人もいませんでした。

 

アメリカの信託統治

 戦後パラオは国連の信託統治領となり、アメリカの統治のもとにおかれました。アメリカはパラオに圧制を敷き、日本時代に行われていた産業振興のための投資はほとんど行われなくなりました。

 

 アメリカはパラオ人に対し、パラオ国内に残る日本文化を徹底的に破壊し、日本国内でしたのと同じように、日本をたたく教育を行いました。

 

 パラオ各地に残る神社を破壊し、日本が残した文書やインフラを破壊しました。

 

 学校では、「日本は自分たちの野望を満たすためにアジアに侵略した」「日本は多くのパラオ人を虐殺した」と、長期にわたって教え込みました。

 

 しかし、日本国内と異なり、パラオ人は、このアメリカの刷り込みに全く影響を受けませんでした。

 

 パラオ人たちは、「日本の統治時代だ一番素晴らしかった」「何があっても我々は日本を愛している」と、言い続けたのです。

 

パラオの独立

 パラオ住民は、静かにアメリカに対して抵抗し続けました。79年に、アメリカの核兵器持ち込みを住民投票で否決すると、アメリカは業を煮やし、81年、自治国である「パラオ共和国」を成立させました。

 

 しかしこの共和国には外交権がなく、アメリカが引き続き外交を担当し、軍隊を駐留させるという形の、傀儡国家でした。

 

 このパラオ共和国を真の独立に導いたのが、第6代大統領の中村國雄(在位1992~2001)です。

 

 ちなみに中村大統領は、日本人の父とパラオ人の母とのハーフです。パラオには今でも多くの日系人が住んでいますが、純粋なパラオ人の中にも、ハルオさんやテルコさんなど、日本人のような名前の方はたくさんいます。

 

 公用語は英語とパラオ語ですが、パラオ語には日本語由来の単語がたくさんあります。「ダイジョーブ」「アリガトウ」「コンニチハ」「アクシュ」「アツイネ」「ムリ」などの単語がそのままの意味でつかわれています。

 

 パラオ独立のためには国連信託統治を終了させる必要がありました。1982年、アメリカはパラオとの間に50年間有効の自由連合盟約を結んでおり、これを承認しない限り信託統治は終了しません。

 

 しかしこの自由連合盟約の承認には、住民投票における75%以上の賛成が必要であり、このため過去7度の盟約承認の試みはすべて失敗していたのです。

 

 中村大統領は、92年に憲法を改正し、自由連合盟約の承認に必要な条件を住民投票における50%の賛成に修正し、アメリカと粘り強く交渉を進め、ついに94年、名訳の承認に成功、パラオにおける国連の信託統治は終了し、パラオは独立することになります。

 

 その時制定された新生パラオの国旗は以下のようなものです。

 

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パラオ国旗

  日の丸にとても良く似ていますね。

 

 青い海に黄色の満月を図案化したものです。満月は中央から少し左に寄っていますね。

 

 この国旗の元ネタはもちろん日の丸です。これは日本に敬意を表したものです。しかし日本の太陽を月に変えたのは、日本が太陽ならば我々は太陽に照らされて輝く月であるという意味だそうです。

 

 少し左に寄っているのは、真ん中にしたら日の丸と全く同じ図案になってしまい、日本に対して失礼である、という配慮からなされたそうです。

 

 最後に中村大統領の後に大統領に就任したトミー・メレンゲサル氏の日本人へのメッセージを引用しておきましょう。 

 

「日本は第二次世界大戦から今日に至るまでの年月で、敗戦から見事に立ち上がり、それどころか、産業・経済・文化など様々な分野において世界のリーダーとして活躍されています。そんな日本の皆様のバイタリティが、実は私たちの国パラオを造ったという事実をご存知でしょうか。

  終戦までの日本は、数万人に及ぶ日本人入植者を送り込み、南洋庁をつくり、私たちパラオ人のために様々な教育や産業を伝えました。それはのちに、パラオ独立のための貴重な原動力となりました。そして現在でもパラオの長老たちは、日本のことを内地と呼び、世界で最も親日感情が高い国と言っても過言ではないのです。

  多くの日本人はパラオをスキューバ・ダイビングのできるリゾート地としか思っていないような気がする。それではいけないと思う。日本の子供達にも、パラオの人々が「日本を愛している」と伝えていきたいと思います。」

 

 

第二次世界大戦における日本の勝利

 この1994年のパラオ独立をもって、地球上の植民地はすべて消滅しました。

 

 日本はアジア植民地の開放を掲げて、欧米諸国を敵に回し、大東亜戦争を戦い抜きました。

 

 日本本国はアメリカに無条件降伏をしてしましたが、日本の思いは世界に通じ、その後アジア各国が独立を達成し、植民地から解放されました。

 

 そればかりではなく、日本が大東亜共栄圏の中の国として意図していなかった、インドや、遠いアフリカの諸国まで独立を達成し、ついには地球上から植民地が一掃されてしまったのです。

 

 日本は倒れましたが、その戦争目的であった植民地の開放は、これ以上ないという形で実現されました。

 

 日本は第二次世界大戦に、完全勝利を収めたのです。