笹原シュン☆これ今、旬!!

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二次大戦の真実8 日本は第二次世界大戦に勝利していた!? 大東亜戦争の帰趨とその後④ インパール作戦とインド独立。

インパール作戦は破れかぶれの特攻?

 大東亜戦争も終盤に差し掛かった、1944年3月、ビルマに駐屯していた日本陸軍は、隣接するイギリス領インド東部の都市、インパールに向けて侵攻を開始しました。これがインパール作戦です。

 

 作戦の目的は、インドを経由した、蒋介石率いる中国国民党への補給路(援蒋ルート)を遮断することでした。

 

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インパール作戦

 

 この作戦は、日本軍将兵にとっては地獄の行軍となりました。

 

 日本軍は3個師団でビルマから、インドに突入したのですが、まずはビルマ国境を流れる、橋のないチンドウィン川を渡河し、3000メートル級の山々が連なるアラカン山脈を越えなければなりません。

 

 この時点で多くの死者が出て、補給物資を失い、とりあえずコヒマの町は落としたのですが、インパールに向かう道のりで戦線は膠着します。

 

 制空権を持っているイギリスからの爆撃が降り注ぐ中、補給が途絶え、大量の餓死者が発生し、玉砕する部隊が続出します。

 

 7月1日に作戦は中止され、生き残った兵士たちは元来た道を食料なしで引き返し、またもやアラカン山脈越えで大量の死者が出ます。

 

 この辺りの事情は「ビルマの竪琴」に詳しく述べられています。

 

 結局9万人以上の死者を出し、作戦は失敗しました。これに対するイギリス軍の戦死者は49人。この作戦の失敗により、その後の連合軍のビルマ侵攻を許し、ビルマ失陥の原因となってしまいました。

 

 このような事情から、日本軍内でインパール作戦は「史上最悪の作戦」と呼ばれることになりました。

 

インド国民から見たインパール作戦

 

 しかし日本史上最悪の作戦と呼ばれるインパール作戦も、当のインド人民から見ると、まったく様相が変わってきます。

 

 これを説明するためには、当時のインドの状況を理解しておく必要があります。

 

イギリス植民地としてのインド

  1800年代前半から、インドはイギリスの植民地となっていました。イギリスから流入した安い綿織物は、インドの綿産業を壊滅させ、1840年のアヘン戦争以降は、イギリスによる中国向けの、アヘンの強制栽培がおこなわれていました。

 

 インドの富はすべてイギリスに収奪され、19世紀末には、大規模な飢饉が立て続けに発生し、何千万人の餓死者が出ました。

 

 インド国民は何度もイギリスに対して反乱を起こしましたが、そのたびに鎮圧され、インドの人々の間には、戦っても無駄だ、アジア人は白人には勝てない、というあきらめのムードが蔓延していました。

 

インド独立への道

 このあきらめムードに一石を投じたのが、1904~05年に行われた日露戦争です。

 

 アジアの黄色人種の国である日本が、白人国家のロシアに勝った、という事実は、インドの人々を奮い立たせ、インド国内に本格的な独立運動が生じてきました。

 

 1895年に設立されていたインド国民会議が独立運動を活発化させ、これによってイギリスが1905年に発したベンガル分割令が廃止されました。

  

 1916年にはジンナーらによる全インド自治連盟が結成され、1919年からは、マハトマ・ガンジーによる非暴力不服従運動が始まりました。

 

 ガンジーの運動は、一定の成果を上げましたが、やはりイギリスからの独立を果たすための決め手を欠いていました。チャンドラ・ボースはこの運動に身を投じていましたが、1921年に、

「ガンディーの武力によらぬ反英不服従運動は、世界各国が非武装の政策を心底から受け入れない限り、高遠な哲学ではあるが、現実の国際政治の舞台では通用しない。イギリスが武力で支配している以上、インド独立は武力によってのみ達成される」

とのべて、この運動から離れています。日本ではインド独立におけるガンディーの役割が強調されていますが、実際にはガンディーが精神的支柱となり、チャンドラ・ボースが、軍を率いて戦い、この両輪によって、独立が達成されたということができます。

 

大東亜戦争の発生

  そして1941年、大東亜戦争が発生し、翌42年、日本軍はマレー半島に攻め込みました。マレー沖海戦で日本は、アジアの人々が見ている前で、不沈艦と言われていたイギリスの、プリンスオブウェールズとレパルスを撃沈し、イギリス艦隊を壊滅させます。

 

 インドの第2代大統領を務めた、ラグ・クリシュナンはこれについて以下のように述べています。

「インドでは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像もできなかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈した。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた」 

 

 その後、日本はインド方面への侵攻を本格化させ、1942年4月にはセイロン沖海戦で連合国海軍を破り、インド洋のイギリス海軍を大きく後退させました。

 

  その後チャンドラ・ボースは日本に亡命し、昭南島(シンガポール)で自由インド仮政府を結成し、アンダマン島とニコバル島を軍事占領しています。

 

 ボースは43年11月に行われた大東亜会議にも出席し、インド独立に向けた熱い思いを述べていましたね。

 

インパール作戦実行

 そしてインパール作戦です。

 

  インド開放を掲げ、アラカン山脈を越え、突入してきた日本軍を見て、インドの国民は驚愕しました。

 

 まさか、外国人が、命を懸けて、自分たちの解放のために戦ってくれるとは夢にも思っていなかったからです。

 

 日本軍はイギリス軍と正々堂々真正面から戦い、そして散っていきました。

 

 インドの民衆は考えました。なんで日本が自分たちのために、命を懸けて戦っているのに、自分たちは何もしないのか、インド独立のために命を懸けて戦わなければならないのは、自分たち自身ではないのか、と。

 

 そしてついにインドの民衆は、武器を持って立ち上がったのです。

 

 それまでは、インド国内外の独立勢力がイギリスと戦い、一般の民衆は指をくわえてこれを見ているだけでした。

 

 しかし、インパール作戦で命を懸けて戦う日本軍を目の当たりにして、ついに一般民衆自身が、鍬や鎌や竹やりをもって、立ち上がり、イギリス相手に戦うようになったのです。

 

 のちにチャンドラ・ボースは、独立運動に際して、実際にインド国民が立ち上がり、イギリスと戦い始めたのは、日本のインパール作戦を見て、日本軍が多大な犠牲を払って、インドを救おうとしたのを見たからだ、と語っています。

 

インド独立戦争開始

 インパール作戦は失敗し、日本軍は撤退、それを追ってイギリス軍はビルマに突入しました。 

 

 このビルマに突入したイギリス軍と、チャンドラ・ボース率いるインド国民軍の戦闘が始まります。

 

 その後日本は無条件降伏し、イギリス軍がインドに帰ってきました。

 

 1945年11月、このインド国民軍の将校3人が、「国王に対する反逆罪」で、イギリスによって処刑されることになりました。

 

 これを聞いたインド民衆は、各地で蜂起し、イギリスに反旗を翻し、大暴動が勃発します。

 

 1946年、ジンナーの指揮の下、インド民衆によって、カルカッタのイギリス人が殲滅されます。

 

 これを受けて、イギリスはインドの独立を容認、翌1947年8月14日、イギリス領インド帝国は解体され、インドおよびパキスタンが独立を達成しました。

 

 

インド独立に際しての日本の役割

 

 1946年、大暴動の最中に、インド弁護士会々長のグラバイ・デサイは次のように述べています。

 

「インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお蔭で30年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド4億の国民は深くこれを銘記している」

 

 白人には絶対勝てないと思っていたインド民衆は、日露戦争とマレー沖海戦で、自分たちでも勝てると思いなおし、インパール作戦を見て、武器を持って立ち上がることを決意しました。

 

 インド開放のためにインパールに攻め込み、散っていった日本軍将兵たちの思いはインド民衆にしっかりと伝わり、インドの独立を導いたのです。

 

 これはもちろんインドだけではありません。 元インド国民軍大佐のハビプル・ラーマンは次のように述べています。

 

「ビルマ、インドネシア、フィリピンなどの東アジア諸国の植民地支配は一掃され、次々と独立し得たのは、日本がはぐくんだ自由への炎によるものであることを特に記さなければならない」

   

 日本は無条件降伏をしてしまいましたが、大東亜共栄圏の理想と、自由への炎は、アジアの人々の中にしっかり息づき、アジア各国の植民地からの独立を導いたのです。