笹原シュン☆これ今、旬!!

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NESARA/GESARA 5 タイタニック号は撃沈されていた!? 米国歴代大統領 VS 国際金融資本家の通貨発行権をめぐる戦い。

暗殺された大統領に共通する特徴とは

 最近になって、ディープステートたちの存在がクローズアップされてきていますが、彼らはつい最近になって表れたわけではありません。彼らは紀元前から、それどころかおそらくは人類の歴史が始まると同時に存在し、ひそかに活動を続けてきました。

 

 アメリカ合衆国が建国された18世紀後半の時点で、彼らは国際金融資本家として活動していました。

 

 すでに述べたように、彼らの最大の収入源は通貨発行権の横取りです。まだ国際決済銀行(BIS)は存在しませんが、当時すでにイギリス、フランス、ドイツなど西洋諸国に、民間の株式会社である中央銀行が設立されていました。

 

 彼らはこれら中央銀行の株主に名を連ねることで、政府が通貨を発行した際の通貨発行益を横取りし、同時に政府に利子付きで発行した通貨と同額の負債を負わせ、それを税金の形で民衆から取り立てるという暴挙を行っていました。

 

 アメリカにおいても、この試みは行われていましたが、歴代の大統領のうち、国際金融資本家たちが仕組んだこの仕組みに気づき、通貨発行権を取り戻そうとした人物が何人かいます。

 

 しかし彼らは、全員暗殺の対象となり、そのほとんどは、暗殺によって命を落としているのです。

 

大統領VS 国際金融資本家の戦い

 アメリカ最初の中央銀行は、1791年にフィラデルフィアで発足した第一合衆国銀行です。それまでは各地によってばらばらだったアメリカの通貨はドルに統一され、第一合衆国銀行が唯一の発券銀行となりました。

 

 これと同時に国際金融資本家の大規模収奪が始まります。

 

 しかしその後勃発した米英戦争の戦費の出費に耐えることができず、この銀行はつぶれてしまいます。代わりに1817年に、第二合衆国銀行が設立されます。

 

 第7代、アンドリュー・ジャクソン大統領は、第二合衆国銀行を利用した、金融資本家たちの通貨発行益の横取りにすぐに気づき、2期目の大統領選において、

「銀行はいらない、大統領はジャクソン」というキャッチフレーズで勝利をおさめます。

 

 アメリカ初の大統領暗殺の試みは、1835年1月30日、このジャクソン大統領に対して行われました。国会議事堂のすぐ横で、ジャクソンに対して銃が向けられ、2回引き金が引かれました。しかしいずれも不発に終わります。

 

 暗殺は未遂に終わり、翌1836年、ジャクソン大統領は第二合衆国銀行を解体します。

 

 この後、しばらくの間アメリカは、中央銀行を持たず、それぞれの銀行や鉄道会社が勝手にドル紙幣を発行する時代になります。発行元が多いので、ディープステートたちは利益を回収するのが大変だったようです。

 

リンカーン大統領の暗殺

 そうこうするうちに、1861年、南北戦争が勃発します。この戦争では、銀行や両替商が北軍・南軍の双方に資金を貸し付け、武器商人が両軍に武器を売り、大儲けしました。両軍とも同じ武器を使っているのでらちが明かず、戦線は膠着します。

 

 この状況を、北軍司令官であるアメリカ合衆国第16代大統領のアブラハム・リンカーンは次のように表現しています。

 

「わたしには2つの強大な敵がいる。前方の南軍と後方の金融組織である。後ろのほうが、手強い敵だ。」

 

 戦費が底をついたリンカーン大統領は、ここで乾坤一擲の勝負に出ます。


 彼は、1862年に法貨条例を制定し、デマンド・ノート (Demand Note)と呼ばれる政府紙幣を発行します。この時発行された紙幣は、背景色が緑色だったため、グリーンバックと呼ばれています。

 

 この政策で財政を一気に立て直した北軍は、大攻勢に転じます。

 

 さらに1865年、リンカーン大統領はこの政府紙幣をを合衆国の永続的な通貨発行システムとする意向を発表しました。

 

 さあ、大変です。ディープステートにとって。

 

 このまま北軍が勝利し、合衆国が政府紙幣を発行し続ければ、通貨発行益はすべて合衆国政府のもとに入り、ディープステートが横取りできなくなってしまいます。

 

 ディープステートたちは素早く動きました。


 一か月後の1865 年4月14日金曜日(聖金曜日)、リンカーン大統領はフォード劇場で観劇中に銃撃され、翌朝、1865年4月15日土曜日に逝去しました。

 

 これが合衆国史上初めての、大統領暗殺の成功例となりました。

 

ガーフィールド大統領の暗殺

 かくして政府紙幣の発行は停止され、アメリカは銀行家及び両替商が幅を利かす世界になっていきました。

 

 彼らを批判するものは問答無用で排除されました。

 

 1881年1月に就任した、第20代大統領ジェームズ・ガーフィールドは、就任直後、

 

「誰であろうと貨幣の量を制御する者は全ての産業と商業の絶対的な主となる。そして最上部にいる一握りの有力者達がシステム全体を何らかの方法で極めて容易にコントロールしているのを知るや、インフレと不況の時期が何に由来するのか、自ずと明白になる」

と述べ、銀行家や両替商達を公然と非難しました。この発言だけで、実際には何の政策も行っていない段階で、ディープステートは動きました。

 
 1881年7月2日にガーフィールド大統領はワシントンD・Cで銃撃を受け、暗殺されました。半年余りの短い在位期間となってしまったのです。

 

中央銀行設立の試み

 20世紀に入り、アメリカに再び中央銀行を設立する試みが活発化してきました。

 

 1910年以降、今も昔もディープステートの牙城となっている民主党は、ポール・ウォーバーグという人物を矢面に立て、連日マスコミで中央銀行の必要性を報道させます。

 

 マスコミといっても、当時はテレビもインターネットもありませんので、主に新聞とラジオです。

 

 このポール・ウォーバーグという人物は、クーンロープ商会の経営者で、ロックフェラーの代理人ともいうべき人物です。クーンロープ商会はリーマンブラザーズやアメリカン・エキスプレスの前身ですね。

 

 彼は1893年や、1907年に起きた金融恐慌は、金融制度が不安定なために生じた、金融制度を安定化させるためには、通貨発行を一元化する中央銀行が必要であると主張しました。

 

 いろいろきれいごとを並べていますが、要は、建国以来合衆国内部で力をつけてきたディープステートたちが、本格的な金融支配に乗り出したということです。

 

 通貨発行を民間の中央銀行で一元化すれば、通貨発行益を簡単に、漏れなく、横取りすることができるからですね。

 

 実際にこのキャンペーンが実施される直前に、J・Pモルガンが所有するジョージア州のジキル島で、全米の名だたるディープステートたちの秘密会合が行われ、中央銀行設立、つまり通貨発行益横取り、の基本方針が策定されています。

 

 このキャンペーンは、アメリカ全土に中央銀行設立の是非をめぐる論争を引き起こしました。

 

 ディープステート配下の銀行や、大企業は軒並み賛成に回りました。

 

 その中で、共和党議員とともに、当時のアメリカを代表する3人の大富豪が、中央銀行設立反対の論陣を張っていました。

 

 その3人とは、鉱山経営で財を成した、ベンジャミン・グッゲンハイム、メイシーズ百貨店のオーナーで政治家でもあった、イザドール・ストラウス、発明家で、資産5兆円を誇る当時のアメリカ最大の大富豪、ジョン・ジェイコブ・アスター4世です。

 

 この3人は、ディープステートによる通貨発行益横取りのたくらみや、金融経済システム独占の野望を知り尽くしていました。

 

 議論は平行線をたどり、このままでは中央銀行設立は見送られる流れに傾いていきます。

 

 ディープステートたちは3人を買収しようとしますが、彼らはすでに大富豪なので、全く効果がありません。

 

 業を煮やしたディープステートたちは最後の手段に出ます。

 

 結局この3人は、1912年4月14日、3人同時にこの世を去ることになるのです。

 

タイタニック号沈没の謎

 皆さんご存じのように、タイタニック号は当時の世界最大の豪華客船で、処女航海中の1912年4月14日深夜、氷山と衝突し、沈没したとされています。

 

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タイタニック号

  この時犠牲となった乗員乗客1513名の中に、ベンジャミン・グッゲンハイム、イザドール・ストラウス、ジョン・ジェイコブ・アスター4世の3人が3人とも含まれていたのです。

 

 こんな都合のいい偶然がありうるでしょうか?

 

 疑惑はさらに続きます。その後沈没したタイタニック号は1985年、3650メートルの深海で発見されます。

 

 発見場所は公海上だったので、多数のダイバーが潜り、遺品を引き上げ始めました。公海上の沈没船の遺品は、引き上げたものの所有物になるからです。

 

 この動きに対し、アメリカやイギリスは素早く動き、船体保護の名目でタイタニック号をユネスコの海の文化遺産に指定し、2国間の条約を結んで、タイタニック号の引き上げおよび、遺品の持ち出しを事実上禁止にしました。

 

 

www.cnn.co.jp

 

  あやしいですね。おそらくタイタニック号の船体には、魚雷が命中したり、仕掛けておいた爆弾が爆発して空いた穴が残っているのではないでしょうか。

 

 実際にはタイタニック号は撃沈されていて、氷山なんて嘘だった、という可能性が高いですね。

 

 実際に氷山を見たという乗客はいないのですから、生き残ったわずかな乗員を買収すれば、氷山に衝突したという話をでっちあげることは簡単です。

 

 現代の技術であれば、タイタニック号を引き上げ、船体を検証することは簡単にできます。それを条約によって封じ込め、タイタニック号撃沈の事実を隠蔽しようとしているように思えます。

 

 1997年に公開された映画『タイタニック』は、ラブストーリーによってタイタニック事件を美化し、真相から目をそらすためのプロパガンダだったのではないでしょうか。

 

 たった3人を殺すため、残りの1500人を犠牲にする行為は、一般の人にはとてもできませんが、ディープステートたちにとっては常套手段です。

 

 日航123便墜落事件や、911を見ればわかりますね。

 

 このような多数の一般人を巻き込む大規模テロ行為が、この当時から行われていたというのは驚きですね。

 

FRB の設立

 タイタニック号撃沈事件によって、主要な反対者をすべて葬り去ることに成功したディープステートたちは、中央銀行設立に向けて機敏な動きを見せます。

 

 まずは中央銀行アレルギーの米国市民対策として、設立すべき中央銀行の名称を、連邦準備制度理事会(FRB)に変更し、批判の矛先をかわします。

 

 実際にはFRB は、連邦準備制度の一部で、全米にある連邦準備銀行を統括するわけですから、全体としての機能は、中央銀行そのものなのですが・・・。

 

 さて1912年は、4年に一度の大統領選挙の年でした。この年の大統領選挙は、FRB 設立に反対する共和党が、現職のウィリアム・タフト、賛成する民主党がウッドロー・ウィルソンを押していました。

 

 下馬評ではタフトの圧勝と言われていたのですが、ディープステートの工作によって、共和党の前大統領のセオドア・ルーズベルトが担ぎ出され、共和党を割って、進歩党を立ち上げ、3つ巴の大統領選挙となります。

 

 共和党の票が2つに割れたため、結局ウッドロー・ウィルソンが地滑り的勝利をおさめ、28代大統領に就任し、民主党政権が実現します。

 

 ウィルソン自身ももちろん選挙において、ディープステートの全面的な支援を受けていました。その見返りは、FRB 設立の実現です。

 

 ウィルソンは、就任式直後のクリスマス休暇中に、特別議会を招集し、多くの議員が欠席する中で、民主党の提出した、オーウェン・グラス法を可決させ、署名し、連邦準備制度を発足させてしまいます。

 

 かくしてアメリカ連邦準備制度理事会(FRB)は、1913年12月23日から、稼働を始め、アメリカの通貨発行益はすべてまとめて、ディープステートに横取りされることになりました。

 

 ちなみに、晩年になってウィルソンは、自らが騙されていたことに気づき、以下のような言葉を残しています。

 

「私はうっかりして、自分の国を滅亡させてしまいました。大きな産業国家は、その国自身のクレジットシステムによって管理されています。私たちのクレジットシステムは一点に集結しました。

したがって国家の成長と私たちのすべての活動は、ほんのわずかな人たちの手の中に有ります。私たちは文明開化した世界において支配された政治、ほとんど完全に管理された最悪の統治の国に陥ったのです」

 

 残念ながら、すべては後の祭りですね。