李承晩の野望
1950年の初頭、サンフランシスコ平和条約発効を控えた吉田茂首相のもとに、とんでもない情報が飛び込んできました。
韓国大統領、李承晩が、日本侵攻作戦を企てようとしているというのです。
これがその時の李承晩の計画です。対馬・壱岐だけではなく、九州及び種子島・屋久島までをも、大韓民国の支配下に置こうという戦略です。
李承晩はこの計画を実現するために、日本侵攻のための艦隊を釜山に集結させていました。
この時期の日本は、アメリカ軍の直接占領下にあり、自前の軍隊を持っていません。韓国の軍事侵攻に自力で対応する能力がないわけです。
また翌1951年には、サンフランシスコ講和会議が控えていました。この会議で講和条約が成立してしまえば、日本の独立が達成され、九州や対馬などは正式に日本の領土となります。
このタイミングが、韓国が日本の領土をかすめ取る最後のチャンスというわけです。
李承晩は、そもそも朝鮮半島が日本の統治下にあったことに不満を覚えていました。
常々、韓国が日本を支配したいと考えていたところ、絶好の機会が訪れたというわけですね。
岸信介の暗躍
吉田はGHQ に相談し、韓国の動きをけん制してもらおうとしましたが、アメリカは動きませんでした。
当時アメリカは、日本に共産主義革命を起こして弱体化させようという民生局主導の政策から、日本を共産主義の防波堤にしようという参謀Ⅱ部主導の政策に変更(逆コース)したばかりで、GHQ 内部で民生局と参謀Ⅱ部の主導権争いが行われており、意思統一ができなかったのです。
困った吉田は、かつての上司だった、岸信介に相談します。岸はのちに総理大臣となりますが、この時は下野している状態でした。安倍前首相のおじいちゃんですね。
岸は戦争時にA級戦犯被疑者として投獄されていましたが、処刑を免れ、2年前の1948年に、釈放となっていました。しかし公職追放されていたため、国会議員や官僚にはなれず、この時は在野で活動していました。
彼は旧満州国の国務院の官僚時代に、満州全域の麻薬取引を統括し、国務院の財源をひねり出した業績があります。官僚でありながら、満州麻薬シンジケートの大ボスだったわけです。
のちに日本国の首相になった岸は、表の世界と裏の世界の両方でトップに立った稀有な人物で、「昭和の妖怪」と呼ばれていました。孫の安倍晋三氏とは正反対のキャラクターですね。
この岸信介こそが、当時の旧満州や朝鮮の残置諜者を統括するハンドラーです。伊賀忍軍における、服部半蔵にあたる人物、といえばおわかりでしょうか。
岸は早速、中国・朝鮮全域にちらばる残置諜者たちに、行動を起こすよう指令を飛ばします。
金日成の賭け
この呼びかけにいち早く答えたのが、北朝鮮の金日成・金策(畑中理)コンビです。
2人は、日本の窮地を救うため、韓国の背後から攻め込む計略を練りました。
しかし、韓国に向けて全軍を進撃させてしまっては、背後からソ連および中国に攻め込まれる恐れがあります。
金日成も金策もこの時点では、スターリンや毛沢東とのつながりは全くありません。
ここで金策は一計を案じ、1950年3月、金日成をモスクワに送り込みます。
モスクワにおいて、隠密裏に、スターリンと金日成の首脳会談が行われました。金日成は北朝鮮が韓国に攻め込むこと、その際にソ連が中立を守ってくれること、を了承してくれるよう、スターリンに懇願します。
しかしスターリンはなかなか首を縦に振りません。
ここで金日成は、スターリンに対して、金策が授けた、一世一代のはったりをかまします。
自分は毛沢東と親しくしている、北朝鮮の韓国侵入はすでに毛沢東の了解を得ており、中国は中立を守ることを約束してくれている、と述べたのです。
これはもちろん大嘘です。しかしスターリンは考え込み、後で回答すると述べて会談は打ち切りとなります。
金日成は帰国後すぐに北京に向かいます。北京では、もちろん初対面の毛沢東と会談し、韓国進攻についての了承を求めます。
毛沢東は返事を渋りました。しかしここでもやはり金日成のはったりが炸裂します。
自分はモスクワに行き、スターリンと会談した。スターリンは快く、我が国の韓国侵攻を了承し、その際の軍事援助を約束してくれたと述べたのです。
毛沢東は驚愕し、思わず、北朝鮮の韓国侵攻と、援軍の派遣を了承してしまいます。
まったく、うそをつかせたら朝鮮人の右に出る者はいませんね。
金日成帰国後、ソ連からの、韓国侵攻の際の中立を約束する使節が到着し、これで準備は整いました。
朝鮮戦争開始!!
1950年6月25日、10万を超える北朝鮮軍が、38度線を越えて、韓国領へと侵攻しました。朝鮮戦争の始まりです。
韓国軍は、対馬侵攻のため、釜山に集結していましたので、完全に虚を突かれた感じになり、北朝鮮軍は破竹の進撃を続けます。
この間、韓国駐留の国連軍は指をくわえてみているだけです。
北朝鮮軍はソウルを占領し、一気に釜山に向けて進軍します。北朝鮮があっさり朝鮮半島を制圧するかと思われた矢先の9月15日、アメリカがやっと重い腰を上げます。
内部の勢力争いで意思統一がつかなかったGHQ も、こうなってしまっては動かざるを得ません。すでに米ソ冷戦は始まっており、共産主義国家である北朝鮮の、自由主義陣営浸食を許すわけにはいきませんので。
7万5千のアメリカ軍は、釜山ではなく、いきなりソウルの目と鼻の先にある、朝鮮半島西岸の仁川に上陸します。
さすがにアメリカ軍は強かった。あっという間に朝鮮半島を制圧し、朝鮮半島から北朝鮮軍を完全に追い出してしまいます。
金日成と金策は、平壌を捨てて、中国の通化に逃げ延びます。ここで金日成は毛沢東に、約束通り、援軍を派遣することを要請します。
毛沢東はこれに応じ、義勇軍を派遣します。義勇軍といっても、一般の人民による軍ではなく、単なる中国軍が名前を変えているだけです。
国際社会からの批判を恐れて、義勇軍という名にしただけですね。
金日成は中国軍とともに再び朝鮮半島に攻め込み、アメリカ軍を押し戻して、戦線は38度線付近で膠着状態になります。
北朝鮮のナイスアシスト
結局韓国は、対馬侵攻どころではなくなり、日本の領土は守られました。
また朝鮮戦争には、日本にとってもう一つの利点がありました。
戦争の間、日本は、軍隊を持っていないという理由で参戦せず、後方支援に徹して、アメリカ軍への武器・弾薬及び食料を供給し続けました。
この軍事特需のため、戦後しばらく低迷していた日本経済は一気に息を吹き返し、その後の高度経済成長への足掛かりを得ることができたのです。
韓国の、対馬・壱岐および、九州への進行を阻み、経済成長の足掛かりを作った朝鮮戦争は、まさに北朝鮮の金日成&金策の、日本に対するナイスアシストと呼ぶことができるでしょう。
李承晩ライン
しかし野望を阻止された李承晩は、このままでは引き下がることはできません。
なんとか日本の領土をかすめ取ろうと画策した李承晩は、1952年1月18日、日本に対して、李承晩ラインと呼ばれる領土境界線を突きつけます。
それは下図のようなものです。
1950年初頭の、領土境界線に比べれば、ずいぶん控えめになっていますね。李承晩もさすがに朝鮮戦争で懲りたものと思われます。
それまで韓国と日本の領土境界線は、占領直後にマッカーサーが定めた、マッカーサーラインが用いられていました。
この李承晩ラインは、マッカーサーラインの境界線をわずかに東にずらしたものです。
しかしこの2つのラインには大きな違いがありました。
マッカーサーラインでは日本側にあった竹島が、李承晩ラインでは韓国側に入っているのです。
日本政府はこのみえみえの策略をしっかり見破り、韓国に李承晩ラインを承認しないと通告します。
3日間の空白
1952年の4月25日には、待ちに待った、サンフランシスコ講和条約の発効が控えていました。
この条約は、主要占領国11か国(イギリス・フランス・オランダ・カナダなど)のうち、過半数である6か国が批准すれば発効することになっていました。
結局条約を最後に批准することになったのはアメリカでした。4月25日のアメリカ議会でこの条約が批准されれば、条約は発効し、晴れて日本は独立となるわけです。
この批准の日に合わせて、マッカーサーラインは4月25日で効力が切れることになっていました。その後は、サンフランシスコ講和条約によって、日本の領土が確定されるというわけです。
しかし、アメリカ議会における条約の批准手続きが長引いてしまい、条約の批准が4月28日にずれ込んでしまいました。すでに4月25日には、マッカーサーラインが停止されてしまっています。
結局4月25日から28日までの3日間、日本の領土を確定する法的基準が何もない、空白の3日間が生じてしまったというわけです。
李承晩はこのすきを見逃さず、すかさず韓国軍を派遣して、この3日間のうちに竹島を占領してしまいます。
日本は激しく抗議し、アメリカに出兵を求めますが、領土に関する法的根拠がない、ということで出兵は見送りになってしまいます。
25日以前ならマッカーサーライン、28日以後ならサンフランシスコ講和条約によって、竹島が日本の領土に規定され、それを根拠に出兵することができますが、この3日の間はどちらも適用範囲外となり、法的根拠がないということになってしまうわけです。
その後、朝鮮戦争そのものは、1953年6月、休戦協定が成立し、38度線に国境が設けられ、戦闘が一時終結します。この休戦状態は、実は現在でもまだ続いています。
結局、金日成&金策の働きで、対馬や壱岐、九州を守ることはできましたが、李承晩の抜け目ない動きによって、竹島を占領されてしまい、それが現在まで続いているというわけです。
わずかなスキを見逃さず、ちゃっかり掠め取るところは、いかにも韓国人らしいですね。