日本の復興
1945年、大東亜戦争において、日本はアメリカに降伏しました。
その後、日本軍によって宗主国の軍が駆逐された、アジアの植民地では、独立戦争が勃発し、植民地が次々と独立を果たしていきました。
これらの戦争では、現地に残る旧大日本帝国陸軍の残党たちが、大活躍を見せました。詳しくは当ブログ、
の記事をご参照ください。
この間、本国日本では、目覚ましい経済復興が遂げられていました。
国防をアメリカに任せ、持ちうる資源のすべてを経済復興に注いだ政策は大成功し、これに国民が一丸となって答え、人類史上最高の、高度経済成長を迎えました。
72年には、外交によって、沖縄の返還に成功しました。
73年のオイルショックによって、成長は多少鈍りましたが、その後も日本は安定成長を続け、80年代には、アメリカに十分匹敵しうる、国力を身に着けるに至ります。
写真はバブル崩壊直前の、89年の、渋谷のスクランブル交差点です。ちょっとごみごみしていますが、現在とあまり変わらない街並みですね。
日本経済が最高潮を迎えていた1989年と現在のGDP を比べてみましょう。
左が1989年、右が2019年のGDP です。
89年には日本のGDPは世界2位で、アメリカの6割程度まで迫っていました。2次大戦のときはアメリカの20分の1のGDPで、戦いを挑み、あそこまでやっていますので、アメリカにとっては脅威だったと思います。
日本の指導層も、2次大戦でアメリカに降伏したのは経済力の差が原因だと考えていましたので、次は負けない、ということで、まずは国力の充実に努めたのです。
しかし2019年には、日本のGDPは中国に抜かれて世界第3位となり、アメリカの4分の1以下まで落ち込んでいるのがわかります。
次は会社の時価総額ランキングです。
御覧のように、89年には世界の会社の上位20位のうち、14社までが日本企業です。アメリカ企業はベスト10内にIBMの1社だけですね。
逆に2017年では、上位の企業がほとんどアメリカ企業であり、日本企業は、35位にトヨタ自動車がやっと入っているだけです。
さらに、世界一の大富豪の変遷を見てみましょう。
ウィキペディアから抜粋しています。94年までは世界一の大富豪は日本人です。堤義明氏は、西武鉄道グループの代表、森泰吉郎氏は森ビルの社長です。
ウインドウズ95が発売された、95年からしばらくは、ずっと、ビル・ゲイツ氏ですね。
89年の時点で、世界の富と金融資産は日本に集中し、製造業は日本が世界を制覇し、このままいけば、日本経済が世界を制覇するところまで行っていたことがわかります。
なぜ日本経済は失速したのか
しかしこの後、日本経済はバブルの崩壊を迎え、デフレに突入します。その後結局デフレから脱却することなく、経済は低迷を続け、今に至ります。
日本国民のパワーが落ちてしまったのでしょうか。そんなことはありません。
政府が適切な政策をとらなかったからでしょうか。それはあります。
しかし適切な政策をとらなかったというよりも、日本政府はこの間、日本を弱体化させ、日本国民の富を、国際金融資本家、つまりディープステートたち、に献上し続ける政策をとっているといったほうがいいでしょう。
なぜこんなことになったのでしょうか。
実は1980年代中盤から、2000年代中頃までの間に、日本国民の目に見えないところで、アメリカとそこに巣くうディープステートたちと、日本とのし烈な経済戦争が展開されていたのです。
我が国は残念ながら、その戦争にやぶれ、国はガタガタにされ、国民の富は収奪され、国民はみんな貧しくなってしまったというわけです。
それでは、時間を1980年台まで戻し、この日米経済戦争のいきさつを振り返ってみることにいたしましょう。
アメリカのドル切り下げ要求
当時のドル円レートは、1ドル240円の固定相場でした。今から見ると考えられないほど、円が安いのがわかります。
この円安の状況下で、日本の製造業は、海外輸出を強化し、世界中で自動車を中心とする工業製品を売りまくりました。
かつて工業国であったアメリカの、国内産業は壊滅し、アメリカは工業製品輸入国に転落します。
アメリカ政府からの度重なるドルの切り下げ要求を、日本政府はのらりくらりとかわし続け、日本国内の製造業を支援しました。
次世代の基幹産業
80年代前半の時点で、急速に成長し、次の世代の基幹産業となるだろうといわれていたのは、パソコンです。
70年代後半から、徐々に、個人用の過程据え置き型コンピューターが普及し始めていました。これらは最初のころは、マイコンと呼ばれていました。
アメリカでは、パソコンはIBM社製と、アップル社製のものが普及していました。アメリカでパソコンが一気に普及したのは、78年のアップルⅡの発売がきっかけです。
日本でもパソコンは発売されていましたが、こちらは国内企業であるNEC(日本電気)製のマイコンが市場を制圧していました。PC-8800シリーズの成功を糧に、82年に発売されたPCー9800シリーズが爆発的にヒットし、日本国内に日本製のパソコンがいきわたっていたわけです。
82年の年末に、TIME 誌の表紙を飾るマンオブザイヤーに、コンピューターが選ばれました。この時そのコンピューターに「パソコン」の名が使われ、これ以降パソコンの呼び名が主流になっていきます。
パソコンは80年代初期までは、プログラムを自分で打ち込んで操作するスタイルで、相当コンピューターの知識がある人でないと、使いこなせない代物でした。
この状況を打破し、プログラムをかけなくてもコンピューターを使えるようにしたのは、OS(オペレーションシステム)が出現したおかげです。
アップル社のコンピューターには、初めから独自のOSが搭載されていました。
IBM社のコンピューターのOSは、創業したばかりのマイクロソフト社製のMS-DOSが使われていました。若きビル・ゲイツが作った会社ですね。
日本のNEC製のコンピューターにもこのMS-DOSが搭載され、画面からコマンドの入力するか、フロッピーディスクに入ったプログラムを走らせて、パソコンを使うシステムになっていました。
OSをめぐる主導権争い
しかしこのMS-DOSが、かなり使い勝手の悪い代物でした。コマンドを覚えて、文法をマスターし、画面から1行1行入力しないと動きません。
ビル・ゲイツはプロジェクトを立ち上げて、1981年から、ウィンドウ型OS、WINDOWS1.0 の開発に取り掛かりますが、技術的な問題から、84年になっても実用化することができませんでした。
1984年、スティーブ・ジョブズのアップル社が、Mcintosh を発売し、独自OSである、Mac-OSによって、ウインドウ型のOSが実現します。
このままではマイクロソフト、およびIBMは、大きな後れを取ってしまいます。
そうこうするうちに、とんでもないニュースが入ってきます。日本が、画期的なウィンドウ型OSの開発に成功したというのです。
国産高性能OS「TRON」
1984年6月、東京大学教授(当時は助手)、坂村健氏による、リアルタイムOS開発プロジェクト、通称「TRONプロジェクト」が開始されます。
これは、坂村氏独自の「ユビキタス」プロジェクトの中心となるOSで、身の回りのあらゆるものにマイクロチップを埋め込んで、それをすべて一台のPCで、制御しようという計画です。
まあ、ユビキタス計画の是非はさておき、この坂村氏考案のOS、「TRON(トロン)」は、OS単体としても、既存のすべてのOSの性能を大きく上回っていました。
さらに坂村氏は、世界中の人々の生活を便利にしたいという願いのもとに、このTRONを無償提供することに決めたのです。
TRONは翌85年に早くも完成し、松下電器産業株式会社の協力を得て、製品化が目前に迫っていました。
松下電器は、自社の製品を無償で世界中のすべてのPCに供与しようとしていたのです。
これが実現すれば、今より20年早く、IT社会が実現し、世界中の人々は、無料の高性能OSの恩恵に浴すことができていたでしょう。
ビル・ゲイツの野望
しかし、このニュースを聞いて、快く思わなかった人物が一人だけいます。もちろん、ビル・ゲイツです。
ビル・ゲイツは、自社のOSを世界中のPCに高額で標準装備し、その利益を独占しようとしていました。
しかし、開発が思うように進まず、困っていたところに、日本が、自分が作っているOS より、はるかに高性能なOSの開発に成功し、しかもそれを無償配布している。
こんなことされたら、俺が利益を独占できなくなるじゃないか、ということです。
ビル・ゲイツは、生まれながらにして、ディープステートの大幹部です。彼はもちろん、ディープステートおよびその支配下のアメリカの総力を挙げて、これを阻止しようとします。
しかし当時のアメリカは、技術力も、資金力も、日本の後塵を拝しており、通常の手段でこれを止める手立てはありませんでした。
そしてディープステート配下のアメリカは、最後の手段に出ることになります。
当時ただ一つ、アメリカが日本に勝っていた分野、軍事力を用いて、この計画を阻止することにしたのです。
日米経済戦争開始
そして、その後30年にわたる、日米経済戦争の開始を告げる、運命の日がやってきました。
1985年8月12日、午後6時12分、TRON製品化に向けた最終調整のため、大阪本社に向かう、松下電器産業株式会社の技術者17人を乗せた、日本航空123便は、524人の乗員・乗客を満載にして、羽田空港を飛び立ちました。
このときすでに、相模湾沖には、日米軍事演習を名目に、アメリカ空母機動艦隊が布陣し、群馬県の御巣鷹山には、ゲリラ戦特殊訓練を名目に、自衛隊の特殊部隊が布陣していました。