笹原シュン☆これ今、旬!!

日本で、世界で、今まさに旬のトピックスをお届けします。政治、経済、文化、世界情勢など、噛み砕いてわかりやすく解説していければと考えています。同時に、日本の在り方、進むべき道についても、示していければと思っております。

マッドフラッド11 江戸時代は存在しなかった? 黙示録後の世界。過去の偉大な文明は、完全に隠蔽された!? 日本編。

19世紀以前の日本の様子

 さて、次は日本です。マッドフラッドが発生したと思われる1816年には、日本は江戸時代で、11代将軍、徳川家斉の時代です。

 

 この時代の日本は、時代劇でよく描かれています。ちょうどこんな感じの街並みだったということですね。

 

 

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 これは果たして本当でしょうか?こんな純和風の街並みが、日本国中に広がっていたのでしょうか?

 

 1669年に刊行されたオランダの宣教師モンタヌスの『東インド会社遣日使節紀行』、いわゆる『日本誌』によると、京都にある三十三間堂はこんな感じだったそうです。

 

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 和風には程遠い状況のようです。仏像がにこやかに微笑んでいますし、建物の様式、周りの彫刻、人々の服装も、時代劇で見るものとはだいぶ違いますね。

 

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同じくモンタヌスの『日本の神カンノン』と呼ばれる絵です。カンノンとは観音様のことだと思われますが、我々のイメージとはだいぶ違いますね。

 

 まるでインドのナーガか、ラミアのようです。

 

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 これはケンペルの『廻国奇観』の中にある「江戸、そこにある世界」という絵です。彼の見た、江戸にある仏像の絵だそうです。

 

 建物にはタルタリア様式の石柱とアーチが多数あり、人々の服装もいわゆる和風ではありません。仏像も、われわれのイメージとはだいぶ違いますね。

 

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 こちらはアンベールの『幕末日本図絵』に出てくる「将軍家の寺」の絵です。これはどう見てもギリシャ・ローマ様式の巨大神殿です。

 

 将軍家の寺というのは、いまでいう芝・増上寺のことかと思われます。

 

 人々がとても小さく見えます。巨人の大きさに合わせて作られているのでしょうか?

 

 当時の日本は、北海道はタルタリアの領土であり、それ以外もタルタリアの友好国で、タルタリア文明の影響を色濃く受けた風俗だったようです。

 

 ちょうど今の日本が、現代文明の様式のビルが立ち並び、洋服を着た人々が歩き回る中に、和風の神社や、和服を着た人たちがぽつりぽつりと散見されるように、

 

 当時の日本は、タルタリア様式の建造物が立ち並び、タルタリア風の衣服を着た人々が歩き回る中に、和風の神社や、和服を着た人たちがぽつりぽつりと散見される、という状態だったのではないでしょうか?

 

 

 

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タルタリア文明の影響

 

 さて19世紀以前に発展していた日本の都市はどこなのでしょうか?

 

 1884年から内務省によってまとめられた『日本全国吐戸口表』などの人口統計によると、それぞれの都市の人口上位10位までの都道府県は以下のようになっています。

 

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 明治17年には1位は大阪で、新潟、愛媛、兵庫と続き、東京は7位です。

 

 次の年から、明治25年まで、1位はずっと新潟です。そして大正時代に入ってやっと東京が1位になり、大正7年には、圧倒的な1位に君臨するようになっています。

 

 ちなみに江戸時代には、江戸のある現在の東京地区の人口は、全国で15位から20位の間であり、幕府のあった江戸は、日本の中心都市では全くなかったことがわかります。

 

 大正時代に至るまで、日本の人口の上位を占めていた、新潟、大阪、兵庫の各府県は、当時はいったいどんな街並みだったのでしょうか?

 

 

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 これは昭和初期の新潟市役所周辺の写真です。新潟市内ではすでに多くのタルタリア様式の建造物が失われていますが、マッドフラッド前の街並みを偲ばせます。

 

 おそらく新潟市は、日本海を通じてタルタリアとの交易を盛んに行っており、ほぼ完全なタルタリア様式の街並みだったのではないでしょうか。

 

 当時は今のように冬に大量の雪が降ることもなかったので、気候温暖な風光明媚な街並みが広がっていたと思われます。

 

 新潟市は、タルタリアから見た、日本の玄関口として発展し、長い間日本国内最大の人口を誇る町であったのだと考えられます。

 

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 こちらは昭和12年(1937年)の大阪・中之島です。何も言われなければ、いったいどこの国かわからないような、完全タルタリア様式の街並みになっていますね。  

 

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 こちらは大阪新世界の初代通天閣、通称ライオン塔です。凱旋門風の大きなアーチの上に立っています。下を歩く人間と比べると、その巨大さがよくわかりますね。

 

 

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 実は凱旋門は日本の各地にたくさん立っていました。

 

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 こちらは有名な新橋の凱旋門です。日露戦争当時の写真です。やはり人間と比べるとその巨大さがよくわかります。

 

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 こちらは日比谷の凱旋門です。一風変わった奥行きのあるアーチになっています。屋根の上には玉ねぎ型のドームも見えます。

 

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 凱旋門は明治末期の時点で東京だけで十数か所、その他日本全国の主要都市にはほとんどすべて設置されていました。

 

 今は凱旋門と呼ばれていますが、これはタルタリア時代の巨大U型磁石です。町全体に無線で電力を配給し、気の流れを整える機能があったようです。

 

 この巨大U字型門は、現代の商店街の入り口なアーチのように、大規模商店街の入り口に必ず設置されており、商店街全体に電力を配給し、町の人たちの気の流れを整えていたものと思われます。

 

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関東ローム層の真実

 そして1816年の核戦争が到来します。日本はDSローマの攻撃目標から外れていたため、直接核ミサイルを撃ち込まれることはありませんでした。

 

 その後、マッドフラッドと、厳しい冬が襲います。しかしこれも、ロシアやアメリカに比べれば大変緩く、低高度地帯が2~3メートルの土砂に覆われ、数年間の不作に見舞われたぐらいですんでいます。

 

 天保の大飢饉は1833年であり、1810年代にはこれといった飢饉の記録もないことから、他の地域に比べればはるかに軽く済んだといえると思います。

 

 一番マッドフラッドの影響を受けたと思われるのは関東平野でしょう。

 

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 関東平野は全域が「関東ローム層」と呼ばれる2~3mの赤土の層でおおわれています。上の写真の上部の茶色い層です。

 

 オフィシャル歴史では、これは1万年前の富士山大噴火の際の火山灰と言われています。しかし1万年前の層にしては表層にありすぎです。

 

 この関東ローム層こそが、200年前のマッドフラッドで堆積した泥なのです。

 

 

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 マッドフラッド前の関東平野は、東京湾が大きく内陸にえぐりこんでおり、現在の埼玉東部や群馬県南部地域は海だったようです。

 

 川越市や伊勢崎市は海に面していたのですね。

 

 ここにマッドフラッドが襲来し、えぐりこんだ海が埋まり、陸地に堆積した泥で海を埋め立て、現在の関東平野が完成したようです。

 

多発する地震と火事

 マッドフラッド以前の日本には、きわめて多数のタルタリア様式の建造物があったことは、これまでに見てきたとおりです。しかし、これらの多くは、現在に残っておりません。

 

 これらの多数のタルタリア様式の建造物は、いったいどこに行ってしまったのでしょうか。

 

 実は幕末から明治時代にかけて、日本では、謎の地震や火災が頻発していたのです。

 

 1847年から58年にかけて、M7以上の地震が実に9回発生しています。

 

1847年5月8日:善光寺地震(M7.4)

1854年7月9日:伊賀上野地震(M7)

1854年12月23日:安政東海地震(M8.4)

1854年12月24日:安政南海地震(M8.4)

1854年12月26日:豊予海峡地震(M7.4)

1855年11月11日:安政江戸地震(M7.4)

1856年8月23日:安政八戸沖地震(M8.0)

1857年10月12日:芸予地震(M7.3)

1858年4月9日:飛越地震(M7.1)

 

 特に、ペリーが浦賀に来航し、江戸幕府に開国を迫った、1853年の後は、これでもかというぐらい大地震が集中していますね。

 

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 なかでも、1854年12月23日に起きた安政東海地震と、その32時間後に起きた安政南海地震は強烈でした。

 

 安政東海地震は、現在くるぞくるぞといわれている、東海大地震そのものでした。また安政南海地震は、震源も被害も、予言されている南海トラフ地震にそっくりです。この2つの巨大地震が、2日連続で日本列島を襲ったのです。

 

 その1年後、1855年11月11日に起きた安政江戸地震は、巷で言われている首都直下型地震にそっくりです。その1年後に起きた安政八戸地震は、ちょっとずれていますが、東日本大震災に相当するような地震です。

 

 19世紀半ばの日本は、一年の間に東海大地震と南海トラフ地震と、首都直下型地震のトリプルコンボを食らい、さらに一年後に東日本大震災が起きるという、地獄のような大地の洗礼を受けたのです。

 

 これらの地震では、あわせて十万人以上の日本人が死亡しました。それだけではなく、建物の被害も甚大でした。

 

 日本各地にある、タルタリア様式の巨大建造物は、これらの大地震の洗礼で、あらかた姿を消すことになります。

 

 こんなに都合のいいタイミングで、こんなに巨大な地震が頻発するなんてありえるでしょうか?

 

 これはもちろん、DSローマと、それに協力した国内討幕勢力による人口地震であると考えられます。

 

 その後、DSローマの援助を受けた国内討幕勢力のクーデターである、明治維新が発生し、明治DS政府が成立します。

 

 明治政府は残されたタルタリア様式の建造物を次々に焼き払っていきます。

 

 そして残された、中小規模のタルタリア様式の建造物には、炎の洗礼が襲い掛かりました。

 

 19世紀終わりには、日本各地で大火が頻発します。一番多かったのは、明治維新直後の東京です。

 

1872年:銀座大火 4900戸焼失

1873年:神田日本橋大火 5000戸焼失

1874年:京橋大火 1200戸焼失

1879年:日本橋京橋大火 11,000戸焼失

1880年:神田鍛冶町大火 2200戸焼失

1881年:神田大火 11,000戸焼失

1885年:日本橋大火 1300戸焼失

1887年:日本橋大火 1700戸焼失

1890年:浅草大火 1500戸焼失

1898年:本郷春木町大火 1400戸焼失

 なんて具合です。ちょうどタルタリア様式の建造物の多い地域が、集中的に焼き払われていますね。日本橋に至っては、実に4回、炎の洗礼を受けています。

 

 地方都市も、もちろん無事ではすみません。たとえば、タルタリアとの交易の玄関口であった新潟では、

 

1880年:三条大火 2500戸焼失

1880年:新潟大火 6000戸焼失

1880年:柏崎大火 2700戸焼失

 

 なんて具合に、タルタリア様式の建造物が集中的に焼き払われています。

 

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昭和30年 1955.10.01 新潟大火

 1800年代後半は、日本中の大都市に大火が頻発し、タルタリア様式の建造物が次々と焼き払われていったのです。

 

 もちろんこれはただの火事ではありません。石造の建造物が溶けていますので、明治政府はおそらくDSローマから提供された、小型の核爆弾を使って各地の都市を次々に焼き払っていったものと思われます。

 

 

 

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廃仏毀釈の真実

 仕上げは明治政府の廃仏毀釈政策です。

 

 明治政府は、神道を国境に定め、神社を保護して、仏教寺院を破壊する政策をとりました。

 

 この「仏教寺院を破壊」というのがポイントです。どうやらここに出てくる仏教寺院は我々が思い描く、いわゆるお寺ではないようです。

 

 廃仏毀釈を免れ、今に残る、築地本願寺を見てみましょう。

 

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 仏教寺院とは言っていますが、どう見てもタルタリア様式の大聖堂です。

 

 各地に残るお城も、現在の形とは違っていたようです。 

 

 

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こちらはモンタヌスが描いた平戸城です。五重の塔型の発電施設のように思えます。

 

 現在神社は全国に8万8千社あります。日本国内のコンビニが2万5千店ですので、神社の数は異常に多いのがわかります。

 

 神社の中には、石垣の上に社殿が乗っているのもあります。

 

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 ちょうど、上記の築地本願寺の建物部分を解体し、土台の石垣部分に新たな木造の建築物を接ぎ木したと考えれば、ぴったりですね。


 さらに、神社の解体工事を行った際、地下から石造建築物が出てくることがよくあります。

 

 まあ、ようするに、廃仏毀釈の名のもとに、明治政府は全国各地のタルタリア様式のフリーエネルギー発電所を解体し、その土台の上に、木造の神社やお城を建てていったのです。

 

 だから神社の数が異様に多くなっている、というわけですね。

 

日本における文明の入れ替え

 以上をまとめるとこのようになります。

 

 日本はもともとタルタリアの友好国で、タルタリア文明とアジア文明が混在している国でした。

 

 タルタリアと交易している日本海側を中心に、地方都市が発展し、江戸は地方小都市のひとつでした。

 

 そこにマッドフラッドが襲来しましたが、日本は山岳地帯が多く、海沿いの町が2~3m埋まっただけで、すぐに復興してしまいました。

 

 関東地方に至っては、マッドフラッドの泥を使った大規模な埋め立て工事が行われ、陸地が大幅に拡大し、さらなる発展を遂げました。

 

 これはDSローマにとっては、予想外の事態でした。

 

 そこでDSローマは、地震兵器を用いて日本各地に大地震を起こし、タルタリア文明の都市を破壊します。

 

 その後、DSローマは、日本国内討幕派を援助し、明治維新に成功します。

 

 明治政府はDSローマより提供された核兵器で日本全国の都市を焼き払い、廃仏毀釈でタルタリア様式の建築物を解体して、その上に木造の建造物を建てていきます。

 

 かくして日本からは、タルタリア文明の痕跡が消去され、今のような和風+現代建築物が入り混じる都市が出来上がっていったというわけです。

 

 明治DS政府の最後の仕上げは、「東京」の建造だったと思われます。

 

 

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 これは1899年(明治32年)の丸の内です。当時は三菱が原と呼ばれていました。

 

 何もない原っぱですね。おそらくもともと海の底で、埋め立て工事が終わったばかりの状態だったのではないでしょうか。

 

 この地に東京駅が建造され、1914年(大正3年)開業にこぎつけます。

 

 その後、東京駅の周りに急速に建造物が立ち並び、東京都心ができていきます。

 

 東京は急速に発展し、大正時代半ばに圧倒的な大都市となり、人々が東京に集中して地方都市が衰退していきます。

 

 DSは政権をとると、だいたい首都一極集中状態を作っていきます。この方が支配がやりやすいということなのでしょう。

 

 東京こそは、DSが作り上げた、マッドフラッド後の新たな文明を象徴する都市である、と言うことができるでしょう。

 

 

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