非自民連立政権の時代
1993年8月9日、日本新党の細川護熙を首相とする、非自民連立政権が成立しました。
成立はしたものの、この政権は、8つの党・会派の寄せ集め政権であり、政権内部の紛争が絶え間なく起こり、細川自身の佐川急便疑惑などもあって、9か月の短命政権に終わりました。
下野した自民党も、金丸信の巨額脱税事件などが明るみになり、ごたごたが絶えませんでした。
政権が不安定なのを見て、DSは、官僚システムを通じて、日本経済に対するさらなる追い打ちを画策します。
細川首相は、1994年2月3日の深夜1時の記者会見で、国民福祉税構想を発表しました。
これは当時3%だった消費税を、国民福祉税の名に変えて、7%に引き上げるというものです。
これは発表の瞬間から、国民からの激烈な反発を受けました。バブル崩壊の後始末も終わっていないのに、なぜこのタイミングで増税なの?という当然の反発です。
しかも、連立内閣内での根回しが不十分だったため、一緒に連立を組んでいた、社会党の村山富市委員長が同日深夜に首相官邸に怒鳴り込み、新党さきがけの武村正義代表が、記者会見でこれを否定するという、異例の事態となりました。
結局、細川首相は、翌2月4日、連立与党代表者会議で、国民福祉税構想を白紙撤回することになります。
この時の連立与党内でのいさかいはその後も尾を引き、特に社会党は、連立政権から距離を置くようになります。
細川護熙は、当時中選挙区だった衆議院議員選挙を、現在行われている小選挙区比例代表並立制に変える、衆議院選挙制度改革を実現させただけで、94年4月に首相を辞任します。
1994年4月28日、細川に代わって首相の座に就いたのは、新生党党首の羽田孜です。
しかし、羽田政権は、出だしからさっそくつまづきました。
首班指名直後に羽田政権は、社会党を除外した、院内会派「改新」を結成すると発表しました。
これに社会党が反発し、社会党が連立離脱を表明します。
羽田孜は、社会党抜きの連立与党を率いることになり、衆議院で与党が過半数を占めることのない少数与党となってしまったのです。
社会党政権成立、自民党政権復帰
これを見た自民党は、さっそく政権復帰工作を開始します。
当時の自民党総裁、河野洋平は、社会党の村山富市委員長、新党さきがけの武村正義代表に誘いをかけ、連立政権の樹立を画策します。
しかし村山、武村両氏は、自民党政権に戻ることに難色を示し、なかなか首を縦に振りません。
ここで河野洋平は、当時だれも考えつかなかった、アクロバティックな打開策を提案します。
社会党の村山富市を首相とし、自民党がそれを支えるという提案です。
提案を受けた村山富市本人がひっくり返ったといわれるこの案を、社会党、新党さきがけの両党が受諾し、1994年6月29日、社会党の村山富市を首相とする、自民党・社会党・新党さきがけの連立政権、通称「自社さ政権」が成立します。
村山富市は1947~48年の片山哲以来、46年ぶりの社会党の首相となりました。
河野洋平が外務大臣、武村正義は大蔵大臣として、村山首相を支えることとなりました。
自民党総裁が首相でない自民党政権は、あとにもさきにも、これ一回限りです。
消費税増税ふたたび
村山首相は、首相就任直後から、それまでの社会党の主張と正反対の数々の政策を実行し、社会党支持層の激高を買いました。
非武装中立を撤回して自衛隊の存続と、自身の自衛隊への命令権を認め、戦争放棄を撤回して自衛隊の海外派兵を認め、日米安保反対の立場を放棄して、日米安全保障条約を認め・・・そのたびごとに左派の社会党支持層は声高に反対を叫び続けました。
このどさくさの中で、ついに村山首相は消費税増税反対を撤回し、1994年11月、消費税の4%への増税と、地方消費税1%を加えた、税制改革関連法を成立させてしまいます。
細川首相の7%への増税で反対が多かったのを踏まえ、合計5%の増税にとどめ、さらには3年後の97年の経済状況を見て、経済が好転していなかったら増税を見送るという条件付きの税制改革でした。
どうせ97年には経済が回復していないだろという見通しと、増税反対派の主力の左派たちが、自衛隊や日米安保問題に気を取られているすきを突いた、なし崩し的な法案成立でした。
翌1995年1月17日には、阪神淡路大震災が勃発します。
その2か月後、3月20日には、地下鉄サリン事件が起こります。
阪神淡路大震災は、人工地震であり、戦後DSが日本に向けて起こした、初の本格的地震攻撃です。
これについては、別の記事で詳しく解説したいと思います。
地下鉄サリン事件は、オウム真理教による毒ガステロといわれていますが、どうも裏で統一教会が尾を引いているようです。
これについても、別の機会に詳しく説明したいと思います。
橋本内閣の成立
その後も村山首相は、住宅金融専門公社(住専)の不良債権処理、米軍沖縄普天間基地移設問題などに悩まされ、党の方針変更による社会党内の幹部の大量離反によって、死に体となってしまいました。
1996年1月5日、村山富市首相は突如辞任を発表します。
変わって1月11日に、首相の座に就いたのは、前年9月に河野洋平に代わって自民党総裁に就任していた、橋本龍太郎でした。
自民・社会・さきがけの連立はそのままに、首相だけ社会党から自民党に替わった構図です。
就任早々、橋本首相は、住専問題に反対する新進党の「ピケ(座り込み)」に直面し、マスコミも反橋本の論陣を張ります。
逆風の中、住専に6800億円の特別融資を行い、住専問題を解決、普天間基地も5~7年後に返還の線で米軍と交渉をまとめます。
目の前の懸案の2つの問題を解決した橋本は、衆議院を解散し、1996年10月20日、総選挙が行われます。
結果は、239議席を獲得した自民党が圧勝、社会党およびさきがけは大幅に議席を減らしました。
この選挙結果を受けて、自民党は、社会党およびさきがけとの連立を解消し、11月7日、3年ぶりの自民党単独内閣となる、第2次橋本内閣が発足しました。
消費税増税の決定
政権基盤を固めた橋本龍太郎は、いよいよ本格的な経済政策に着手します。
まずは最大の懸案として、村山内閣時に決めた消費税5%への増税の実行期限が4月1日に迫っていました。
税制改革法案自体は、以前に決まっていましたが、実際に5%にするかどうかは、3年後に経済状態を踏まえて、時の首相が決めるということでしたね。
その3年後が、ついにやってきたわけです。
実際の経済状態は、回復したとは程遠い状態でしたが、94年当時よりはだいぶましというものでした。
このままなにもしなければ、おそらく日本経済は回復していたと思います。
しかし橋本首相は、消費税5%への増税を強行しようとし、予想通り、国民から大反発を受けることになります。
このとき、国民の注意をそらすために、消費税3%導入の時と同じ手法が用いられました。
大事件を起こし、連日それを報道させて、国民の目がそちらにくぎ付けになったすきに、増税を決めてしまおう、という手法です。
この時用いられたスピン報道は、神戸連続児童殺傷事件、通称「酒鬼薔薇聖斗事件」です。
酒鬼薔薇事件の真相
1997年2月10日、神戸市須磨区の須磨ニュータウンで、小学校6年生の女児2人が後ろからハンマーで殴られ、1人が全治1週間の怪我をしました。
この時点からマスコミは、児童を狙った通り魔事件として、大々的に報道を始めます。
その後、3月16日、同じく神戸市須磨区で、前回の事件と同一とみられる人物が、小学校4年生の女児を金づちで殴りつけて逃走し、小学校3年生の女児の腹を小刀で刺して逃走しました。
殴りつけられた4年生のほうは、1週間後、脳挫傷で死亡しました。
さらに5月27日、神戸市須磨区の友が丘中学校の正門に、切断された男児の首が置いてあるのが発見されました。
男児の首の口の中には、丸められた犯行声明文が入っていました。それは、
さあゲームの始まりです
愚鈍な警察諸君
ボクを止めてみたまえ
ボクは殺しが愉快でたまらない
人の死が見たくて見たくてしょうがない
汚い野菜共には死の制裁を
積年の大怨に流血の裁きを
SHOOLL KILL学校殺死の酒鬼薔薇
というものでした。これ以降この事件は「酒鬼薔薇事件」と呼ばれるようになります。
警察は6月28日、事件の容疑者として、友が丘中学校3年、14歳の東真一郎を逮捕します。
東は犯行を認め、精神鑑定の末、少年院に送られ、6年後の2004年3月10日に少年院を退院し、社会復帰しています。
まあ、これも以前述べた宮崎勤事件同様、警察とマスコミによって作られた犯罪であると思われます。
犯人とされた東真一郎は、おそらくやっていないでしょう。学校で奇妙なふるまいをしたり、猫を殺したりしていたので、警察に目を付けられ、犯人に仕立て上げられたものと思われます。
東は、少年院退院後、「少年A」の名で、著書を出版したりしていますので、警察との間になんらかの手打ちがあったものと思われます。
消費税増税と緊縮財政
この事件は被害者が小学生、加害者が中学生という少年犯罪であったという点に加え、首を切断したり、声明文や手紙をマスコミに送りつけたり、という、いわゆる劇場型犯罪でした。
マスコミは連日この事件一色となり、視聴者はこの事件にくぎ付けになって、消費税の件はすっかり忘れてしまいました。
消費税5%への増税はあっさり決定し、4月1日、実施されました。
国民は後から、「え?消費税5%?いつ決まったの?」なんて感じで、いつの間にか5%になっていたという印象でした。
橋本首相は11月には「財政構造改革法」を成立させ、2003年まで毎年赤字国債を削減していくことを決めました。
それにともない、公共事業などの財政支出を大幅に削減します。
このほかにも、健康保険の自己負担率を10%から20%に引き上げ、バブル崩壊後に行われていた特別減税を廃止するなど、大幅な緊縮財政政策を実行しました。
需要が縮小し、デフレに陥っている状態では、本来財政支出を大幅に増やして需要を作成しつつ、減税を行って国民の購買力を高めていく政策が求められます。
しかし橋本龍太郎の行った政策は、これとは全く逆の、需要をさらに減らして国民の購買力を徹底的にそぎ落とす政策でした。
バブル崩壊の後、ぎりぎり持ち直していた日本経済は、これによって激烈なショックに見舞われます。
日本経済の完全崩壊
1997年11月3日、三洋証券が破綻します。その後11月15日、当時の都市銀行11行の一角を占める北海道拓殖銀行が破綻しました。
そして1997年11月24日、当時の4大証券の一角、山一證券が破綻します。
当時の日本人は、まさか4大証券や都市銀行が破綻するなんて思ってもいませんでしたので、この事件が日本経済に与えるインパクトは甚大でした。
翌98年に入ると、ワリチョー、リッチョーなどの割引債を発行していた、日本長期信用銀行が破綻します。
この時点で、まさか銀行や証券会社がつぶれるなんて思っていなかった日本の経済界は恐慌をきたし、日本の経済システムは大混乱に陥りました。
国民の罵声を浴びた橋本政権は、大慌てで2兆円の特別減税を発表しますが、完全に焼け石に水、すでに後の祭りでした。
バブル崩壊後の混乱の中で、ぎりぎり持ちこたえていた日本経済は、橋本首相の政策が最後の一押しとなり、ガラガラと音を立てて崩れていったのです。
結局1998年の、日本の名目GDPは、一気に10兆円縮小し前年度比マイナス2%となり、GDPデフレーターはマイナス0.5%に落ち込んで、深刻なデフレとなってしまいました。
これ以降、日本のデフレ経済は確定的となり、日本経済は長い長いトンネルの中でもがき苦しみ続けることとなります。
またこの時代の就職は史上最も就職率の低い「超氷河期」とよばれ、新卒学生の半分以上が就職できず、フリーターになったり、引きこもったり、という状態が続くこととなりました。