笹原シュン☆これ今、旬!!

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日米経済戦争11 まんまとDSに騙された指導者!? 橋本龍太郎の功罪とは?

橋本龍太郎は民衆派?

 以上のように、1990年に崩壊したバブル経済によって、日本経済は大きなダメージを負いましたが、95年までにはそのショックはある程度癒え、小康状態となりました。

 

 それに最後の一撃を加え、日本経済を完全崩壊に導いたのが、消費税増税をはじめとする橋本龍太郎首相の経済政策だったわけです。

 

 橋本龍太郎は、DSの意を受け、日本経済を破壊するためにこのような政策を実行したのでしょうか。

 

 どうやらそうではないようです。

 

 橋本龍太郎は、そもそも民衆派に属し、日本経済を復興させ、日本国民を救おう、という情熱のもとに、首相に就任したように思われます。

 

 橋本龍太郎は、同じく政治家だった父龍伍の死を受け、1963年に衆議院議員に初当選します。

 

 

 この時ともに初当選を飾った、小渕恵三とは盟友となり、ともに民衆派として民衆の手に日本を取り戻す政治をやろうと誓い合っていたようです。

 

 96年1月11日橋本は、村山富市氏に代わって首相に就任すると「強靭な日本経済の再建」「長寿社会の建設」「自立的外交」「行財政改革」の4つを最重要課題として掲げ、行政改革と財政改革にまい進する決意を示しました。

 

 しかし、この直後から、官僚、特に橋本が改革を掲げていた大蔵省(当時)の官僚からの、取り込み工作が始まったようです。

 

 この時すでにアメリカの意のままになっていた大蔵省は、巧みに橋本を説得し、「バブルが崩壊し財源がない、このままでは財政が破綻する」といって、橋本に緊縮財政を実行させることを決意させてしまいます。

 

 前記事で述べた、消費税増税や健康保険の自己負担率引き上げ、特別減税廃止などのほかにも、橋本が行った改革で、その後の日本のあり方に大きな影響を与えてしまった政策がいくつかあります。

 

大店法の廃止

 一つは大規模小売店舗立地法、通称大店法の廃止です。

 

 この法律は1974年、田中角栄によって作られました。

 

 売り場面積3000㎡以上の大型店舗を出店する際には、「大規模小売店舗審議会」(大店審)が審査を行う(いわゆる「出店調整」)という法律です。

 

 この大店審の審査はとても厳しく、日本では大都市のターミナルの駅前以外では大型ショッピングセンターはまず作れない、という状態が続いていました。

 

 これは地方の商店街を守るための政策です。

 

 当時の日本では、どの町にも必ず商店街があり、個人で経営する八百屋さん、肉屋さん、文房具屋さん、駄菓子屋さんなどが軒を並べていました。

 

 年配の方なら、このような情景は記憶に残っていると思います。

 

 近くに大型のショッピングセンターができてしまったら、これらの商店街の個人商店は軒並みつぶれてしまいます。

 

 大店法はこれを防止するために存在し、当時の日本国民は軒並みこの法律を支持していました。

 

 これが廃止されるに至ったのは、もちろんアメリカの圧力によってです。

 

 1990年、設立されたばかりの日米合弁会社である日本トイザらスが、日本進出第1号店として新潟市への出店を計画していましたが、大型店に阻まれ、暗礁に乗り上げていました。

 

 トイザらスはアメリカ政府に泣きつき、この時行われていた日米構造協議において、アメリカ合衆国が「大規模小売店舗法(大店法)は非関税障壁で、地方公共団体の上乗せ規制条例を含めて撤廃すべきだ」と要求します。

 

 これを受けて日本政府は、大店審の審査を大幅に緩和し、地方都市にぼつりぽつりと大型ショッピングセンターができていくこととなります。

 

 さらに1995年、アメリカのフィルムメーカー、コダック社が「日本だけ市場占有率が低いのは、富士フイルムが排他的な市場慣行を利用しているためであり、大店法もそのひとつだ」と主張し、『日米フィルム紛争』が勃発しました。

 

 この紛争は日米の二国間交渉で決着せず、WTO(世界貿易機関)に持ち込まれることとなります。

  

 WTOは、1998年(平成10年)1月に日本国政府の主張をほぼ全面的に認める、最終報告を行いました。

 

 しかしその過程において、大店法にWTO違反の「疑い」があることを指摘し、これをうけて橋本首相は、大店法を廃止する方針を決めてしまいます。

 

 結局1998年の通常国会で、大店法廃止が決定され、2年後の2000年から施行されることになりました。

 

 施行の結果は、みなさんご存じのとおりです。

 

 地方の道沿いにイオンやダイエー(当時)、ららぽーと、カルフールなどのショッピングセンター、アウトレットモールが立ち並び、商店街は軒並みつぶれて、閉店した商店がたちならぶシャッター街がそこら中にできてしまった、というわけです。

 

日銀法改正

 橋本龍太郎が行った、以後の日本経済に最大の影響を与えた失策は、おそらく1997年6月 18日に行われ、翌98年4月1日に施行された、日本銀行法、略して日銀法の改正です。

 

 これは日銀の金融政策の独立性を最大限に認めた法改正です。

 

 それまでの日銀法でも、日銀の独立性は守られていましたが、それは手段の独立性であって、目的の独立性ではありませんでした。

 

 しかし、この改正で、日銀は目的の独立性まで獲得することになります。

 

 なんていうと、なんでそれがそんなに問題なの?と思われるかもしれません。

 

 以前の日銀法では、政府がインフレ率2%にしなさい、と日銀に指示すれば、日銀はそれを守らなければなりませんでした。そのかわり、どうやって2%を維持するかは日銀の裁量に任されていたのです。

 

 インフレ率2%を守る手段として、公定歩合を下げるのか、金融緩和を行うのか、市中の株式を買い入れるのか・・・は日銀に決めさせる、というものでした。

 

 ところが1997年の日銀法の改正では、日銀は独自の政策決定会合を開き、インフレ率の目標そのものも、自前で決められることになってしまったのです。

 

 つまり、政府がインフレ率2%にしろ、と指示しても、日銀内部の政策決定会合で、「諸般の事情を鑑み、インフレ率を0%に誘導する」と決めてしまえば、インフレ目標は0%となるのです。

 

 これによって、日銀が政府の指示を無視して、独自の金融政策ができるようになってしまったのです。

 

 その政策をどうやって実行するかの裁量も、引き続き日銀が保有しています。

 

 ようするに、日銀が、日本政府の方針を全く無視して、グローバルDSが指示した通りの方針を勝手に決めて、勝手に実行できるようになってしまったわけです。

 

 これ以降、日本の金融政策に対して、日本政府は完全に無力となりました。

 

 日銀をはじめとする中央銀行は、もともとDSを株主とする株式会社で、政府とは別のDS直轄組織です。

 

 しかしこれまでは、日本政府の指示通りに政策を実行する義務を持たされていました。

 

 この改正で、日銀のくびきは完全に取り去られ、日本政府の方針とは関係なく、日本経済を破壊するデフレ政策をとり続けることができるようになったのです。

 

 案の定、これ以降デフレが長引いていく中で、日銀は金融引き締め政策をとり続け、日本経済はますます縮小していくこととなります。

 

 さらには、のちに続く歴代の首相が、どんな政策を行っても、日銀の金融政策によってすべて無効にされてしまう、という状態が続くこととなったわけです。

 

 橋本首相は、なんでこんな愚かな政策を実行してしまったのでしょうか。

 

 おそらくこれを決めるにあたり、日銀およびそれを所管する財務省(当時は大蔵省)との間の密約があったのだと思います。

 

 橋本首相は、行財政改革を旗印にしていました。その目玉となるのは、財政政策の中枢を担う、大蔵省の改革でした。

 

 橋本首相が行った大蔵省の改革は大きく分けて2つありました。

 

 ひとつは、奈良時代から続く伝統的な「大蔵省」という名称を、現代アメリカ的な「財務省」に変更すること。

 

 もう一つは、大蔵省から金融業務を分離し、金融監督庁を設置したことです。

 

 大蔵省はこの改革に、大きな抵抗を示しました。1500年以上続く伝統的な名称を変更されてしまうことによる抵抗と、省そのものが分割され、力が減少してしまうことに対する抵抗です。

 

 政府はこの大蔵省の抵抗を封じるために、大蔵官僚のスキャンダルをマスコミにリークして報道させ、世論によって大蔵省を攻撃させる作戦をとりました。

 

 これが「大蔵省接待汚職事件」、通称「ノーバンしゃぶしゃぶ事件」です。

 

 

 事件の詳細はここでは省略します。各自検索してみてください。

 

 ノーパンしゃぶしゃぶ事件は連日マスコミで報道され、大蔵省への非難が高まり、ついに大蔵省は橋本龍太郎の提案を受け入れざるを得なくなりました。

 

 その見返りとして、日銀法を改正し、日銀の独立性を高めさせてくれ、と橋本に持ち掛けたものと思われます。

 

 橋本首相はこの取引に応じ、見事に大蔵省の改革に成功しました。といっても、これは名目だけの改革で、日本経済に与える影響はほとんどありません。

 

 しかし見返りとして認めた、日銀法改正の影響力は絶大で、消費税増税や緊縮財政で崩壊した日本経済を、のちの政権が立て直す手段を完全に奪い去ることになってしまいました。

 

 結果的に、橋本龍太郎は、日本経済を崩壊させ、以後それを立て直す手段をも奪い去ってしまう、最悪の経済政策を行ってしまったことになったのです。

 

アジア通貨危機のからくり

 橋本龍太郎の経済失策の影響は、日本一国にとどまらず、周辺のアジア諸国にも影響を及ぼしました。

 

 1997年7月、タイの通貨、バーツが暴落しました。これはすぐさま周辺のアジア諸国に飛び火し、東アジア、東南アジア各国の通貨暴落と経済危機が発生しました。

 

 これは、アジア通貨危機と呼ばれています。

 

 この通貨危機によってタイ・インドネシア・韓国は、経済崩壊に陥り、IMF の管理下に入りました。マレーシア・フィリピン・香港も大きな打撃を被りました。

 

 アジア通貨危機の原因は、直接的には、アメリカのヘッジファンドなどの機関投資家による、アジア各国の通貨の空売りだといわれています。

 

 この時のヘッジファンドは、アジア各国の外貨準備高を上回る資金を保有しており、それを売り浴びせて、アジア諸国の通貨を暴落させ、空売りによって莫大な利益を上げたというわけです。

 

 しかしなぜこの時、アメリカのヘッジファンドは、これほどの資金を持っていたのでしょうか。

 

 日本国内の銀行は、多額の不良債権を抱え、大規模融資先を探していました。

 

 しかし日本国内では、橋本政権による消費税増税や緊縮財政で景気が冷え込み、いまだにバブル時代の借入金を抱えた日本企業は、銀行からの融資を受けて投資しようとはしませんでした。

 

 困った日本の銀行の、大口融資先となったのが、これらのアメリカのヘッジファンドです。

 

 アメリカのヘッジファンドは、日本の銀行から低利で巨額の融資を受け、その資金で、アジア各国の通貨にカラ売りを仕掛けたというわけです。

 

 本来日本国内の経済活性化に使われるはずの日本の銀行の資金、すなわち日本国民の預金は、アジア諸国の経済を崩壊させ、アメリカのDSヘッジファンドを大儲けさせるための原資となったのでした。

 

アメリカ国債を売却?

 橋本龍太郎政権は、大方の予想に反して、短命に終わりました。

 

 当時の橋本首相は、国民から大変な人気を博しており、さらにDSの言いなりになって日本を破壊する政策を乱発していたため、DSからの信頼も厚い首相でした。

 

 国民とDSの双方の支持を受けた政権は、長期政権になるのが日本史の通例です。

 

 この通例に反して、橋本政権が短期政権に終わったのは、橋本首相がアメリカに渡った時に起こしたある事件が理由であるといわれています。

 

 1997年6月、デンヴァーサミット出席のため渡米していた橋本首相は、6月23日、コロンビア大学で講演を行いました。

 

 このとき聴衆から「日本がアメリカ国債を蓄積し続けることが長期的な利益になるのでしょうか?」と質問されました。橋本首相はこれに対して、

 

「大量のアメリカ国債を売却しようとする誘惑にかられたことは、幾度かあります。」

 

と答えました。

 

 この橋本首相の発言を、地元アメリカのマスコミが大々的に報道し、ニューヨーク証券取引所の株価が一時大幅に下落するという事態となりました。

 

 日本が保有する大量のアメリカ国債が売却されたら、それだけでドルが大暴落し、アメリカ経済は崩壊してしまいます。

 

 これはDSにとって、絶対に容認できない事態です。

 

 この日以来、日本及び世界各国のマスコミの、橋本首相に関する評価が一変しました。

 

 それまで好意的な評価で持ち上げられていた橋本首相は、連日マスコミでたたかれることになり、内閣支持率は急速に落下していきました。

 

 1998年7月の参院選で、経済崩壊による国民の怒りを受け、DSマスコミによる連日のバッシングにさらされた自民党は、当初は70議席を獲得すると予想されていた議席を44議席に大きく減少させ、惨敗しました。

 

 橋本龍太郎首相は

「すべてひっくるめて私の責任だ。力不足。それ以上いうことはない」

と敗戦の弁を述べた後、橋本内閣は総辞職しました。

 

 結局、橋本龍太郎は、最初は民衆派でありながら、DSに騙され、回復しかけていた日本経済にとどめを刺したうえに、以後回復不能の状態にしてしまい、ひいてはアジア諸国の経済まで崩壊させてしまった首相となったのでした。

 

 晩年、橋本龍太郎はDSにまんまと騙されてしまったことに気づき、

 

「私は平成9年から10年にかけて緊縮財政をやり、財政再建のタイミングを早まって経済低迷をもたらし、国民に迷惑をかけた。私の友人も自殺した。本当に国民に申し訳なかった。これを深くお詫びしたい」

 

と述べました。

 

 しかし、すべては後の祭りとなってしまったのです。