平成おじさんから総理大臣へ
1998年の参議院選挙で、自民党は45議席へと大幅に議席を減らす大敗を喫しました。
これを受けて、橋本龍太郎内閣は総辞職。
7月30日、橋本内閣で外務大臣を務めていた、小渕恵三が首相に就任しました。
小渕恵三は、1989年1月7日の昭和天皇崩御に際して、竹下登内閣の官房長官を務めており、
「新しい元号は「平成」であります」の掛け声とともに、新たな元号「平成」を国民に布告した、「平成おじさん」として、知られていました。
まさかこの人が首相になるなんて、というのが、この時点での大方の国民の反応でした。
マスコミは「一刻も早い退陣を」とこき下ろし、ニューヨークタイムズでは「冷めたピザ」と酷評され、同じ自民党の後藤田正治からは「鈍牛」と揶揄されました。
実際、当時の自民党は衆議院でぎりぎり過半数、参議院では直前の橋本内閣時での選挙で敗北して過半数を割り込む状態で、政権基盤は極めて脆弱でした。
大方の国民は、「どうせ何もできないだろう」と高をくくっていたのです。
積極財政による経済復興
しかし、国民の予想に反し、首相就任直後から、小渕恵三は猛然と仕事を進めていきます。
所得税、法人税などを一気に9兆円減税し、特別経済対策として補正予算を組んで、18兆円の公共投資を実施しました。
総額27兆円の政府資金を一気に市場にぶっこんだのです。
これに市場は敏感に反応し、冷え切っていた景気が徐々に回復に向かっていきます。
また日銀と交渉し、金利を下方誘導し、大手銀行など15行に、合計7,5兆円の公的資金を投入し、不良債権の処理を行いました。
さらに銀行の合併、再統合を行い、現在みられる都市銀行5行体制へと向かわせました。
潤沢な資金供給と、政府による需要創造によって、身動き取れなかった日本経済は回り始め、次第にその力を取り戻していきます。
これらの大規模公共投資や、不良債権の処理は、バブル崩壊後、国民から早くやれ、と言われながらも、8年にわたって誰もできなかった政策です。
小渕恵三は、これらの問題を、わずか半年で、すべて解決してしまったわけです。
確信をもって迷いなく、つぎつぎと立て続けに公的資金を的確に投下していく小渕首相を見て、
国民は「え?この人、こんなに仕事ができる人だったの?」という感じで、ぽかんと口を開けてあっけに取られている、という状況でした。
経済対策をひとまず軌道に乗せた小渕首相は、政権基盤の強化に乗り出します。
翌99年1月には、自由党の小沢一郎党首との交渉を成功させ、自由党との連立を実現させて、自自公連立政権が成立します。
これによって、自民党は参議院における多数派を取り戻し、政権は安定に向かいます。
安定多数を得た小渕政権は、防衛問題に着手します。
周辺事態法、通信傍受法、国旗・国歌法を立て続けに成立させ、懸案の国防問題を解決します。
周辺事態法は、領海への侵犯行為に対して、自衛隊と米軍が共同で対処できるようにした法律、通信傍受法は、敵国工作員同士もしくは工作員から本国への連絡を傍受できる法律です。
国旗・国歌法は、日の丸を国旗とし、君が代を国歌とする法律です。
日の丸・君が代は習慣的に国旗・国歌として使われていましたが、これをバックアップする法律がなく、いろいろ問題が起きていたわけです。
これらの法律はすべて、80年代初頭から問題となっていて、それまで20年間、やろうとしてもだれ一人できない聖域と化してしまっていたのです。
小渕恵三は、どれ一つとっても20年間誰もできなかった法制化を、まとめて半年で、すべて実現してしまったわけです。
この時点で、小渕恵三の評価は一変していました。
後藤田正治は「鈍牛どころじゃない。小渕は火牛だ」と言い始め、一般の国民も小渕恵三を「偉大な宰相」として扱うようになりました。
このころバラエティー番組で、通常首相を揶揄する発言をするお笑い芸人たちが、小渕恵三首相に対して敬語を使ってその業績を讃えていたことを、私は今でも覚えています。
この間も小渕は大規模公共投資を継続し、2年間で合計42兆円の資金を市場に投下し、99年のGDPはついに上昇に転じました。
とくにIT産業の好調ぶりはすさまじく、日本国内にITバブルが出現し、半導体を生産していた九州が「シリコンアイランド」と呼ばれるようになります。
このほか、小渕恵三の業績としては、地域振興券の実施による地方経済の復興や、2000円札の発行などがあります。
千年紀最後の年となる2000年に入ると、景気は堅調に回復を続け、国民の間には「これで日本経済は何とか回復しそうだ」という安心感が醸し出されていました。
政権基盤を安定させ、経済政策、防衛政策に成功を収めた小渕政権は、国民の支持を受け、長期政権になるだろうと目されていました。
実際、小渕政権があと4~5年続いていれば、日本経済は完全に回復を遂げていたことでしょう。
在任中の突然の死
しかし、悲劇は突然やってきました。
2000年4月1日、連立政権を組んでいた自由党との連立が決裂しました。
この緊急事態に、小渕首相は緊急記者会見を開きました。
しかし、記者から質問されると、小渕首相は無言でぼうっと座ったまま応答せず、10秒以上たってから、要領の得ないしどろもどろの答弁を繰り返しました。
翌日4月2日、小渕首相は脳梗塞を発症し、意識を失い、順天堂大学医学部附属順天堂医院に緊急入院しました。
4月5日、小渕首相が昏睡状態の中、総理大臣臨時代理に就任していた青木幹夫は、小渕内閣の総辞職を決定しました。
結局小渕首相は、意識を取り戻すことなく、約1か月半を経た同年5月14日午後4時7分に、62歳の若さで死去しました。
首相在任中の死去は、1980年6月に急逝した、同じく民衆派の大平正芳以来、20年ぶりのこととなりました。
民衆派の悲哀
以前の記事で述べたように、日本の政治家は、大きく分けて3種類に区分されます。
日本DS、グローバルDS、および、民衆派です。
このうち民衆派は、きわめて数が少なく、戦後の首相では、田中角栄、大平正芳、小渕恵三の3人だけです。
最初は民衆派で、グローバルDSに騙されてその手下となってしまった橋本龍太郎を入れても4人です。
民衆派を全うした3人の首相は、みなさんご存じのように、すべて失脚するか、在任中に死亡しています。
これはもちろん偶然ではなく、DSによって、失脚もしくは暗殺されていると考えられます。
民衆派の3人の首相が、みな就任中に目覚ましい実績を上げているのは、政治家としての実力が並外れているからです。
というか、日本DS、グローバルDSの朝鮮人政治家たちが跋扈する日本の政界で、彼らを倒して、首相に就任するためには、並外れた政治力が必要だというのが本当のところでしょう。
しかし、彼らは当然のことながら、DSにとっては容認しがたい存在です。
せっかく自分たちが日本国民を支配してその富を収奪しようとしているのに、国民の立場に立って日本国民を豊かにしてしまうとは何事だ、ということです。
小渕恵三が、首相就任直後から、迷いなく財政出動政策をとり、日本経済を一時的に復興させることができたのは、前任者である橋本龍太郎を見ていたからだと思われます。
1963年の総選挙でともに初当選を果たした橋本龍太郎とは、盟友として、お互い「龍ちゃん」「恵ちゃん」と呼び合う関係でした。
小渕恵三と橋本龍太郎は、はじめはともに民衆派で、2人で日本を良い国にしていこう、と誓い合っていたものと思われます。
しかし、一足早く首相になった橋本龍太郎が、DSにあっさり騙され、日本経済を破壊する政策をとっていったのを見て、小渕恵三は「俺は絶対騙されないようにしよう」と思ったのでしょう。
橋本龍太郎のとった緊縮財政政策とは全く逆の、財政拡大政策をやれば、日本経済は復活するとの確信をもって、小渕恵三は就任当初から猛然とダッシュをすることができたのだと思います。
確信をもって、日本経済を復興させる政策を次々に打ち出していく小渕恵三を見て、慌てたのはDSです。
せっかく日本経済を破壊することができたのに、ここで復興されては元も子もない、そう思ったDSは、マスコミや、配下の政治家を使ってさまざまな小渕降ろし工作を実行していきました。
しかし小渕は、これらを全部はねのけ、政権を安定させ、経済を復興させて、国民の支持を得て、長期政権への道筋を固めてしまったのです。
DSに最後に残された道は、小渕の暗殺だけでした。
小渕恵三はおそらく3月末の時点で、側近の誰かによって薬を盛られていたものと思われます。
そうでなければ、あのような絶妙なタイミングでろれつが回らなくなり、意識を失って入院、なんてことにはならないでしょう。
DSに逆らう首相は暗殺する、それがこの時代の流儀だったのです。
これ以降、2023年の今日においても、民衆派の首相は出現しておりません。
「最後の民衆派」小渕恵三は、志半ばにして倒れ、日本は完全に外国勢力の支配下に置かれることとなるのです。
グローバルDS政権の成立
4月5日、小渕恵三の後を受けて首相となったのは、森喜朗です。
森喜朗は、わが国初の、グローバルDSの首相です。
日本では、大日本帝国海軍の流れをくむ、日本DSの勢力が強く、本場のグローバルDSは、なかなか政権をとれない時期が続きました。
しかし、1985年の日航123便事件で、日本DSの総帥、中曽根康弘が敗北を喫し、日本DSの力は急速に弱まっていきました。
そしてバブル崩壊を経て、2000年になり、ようやくグローバルDSが日本の政権をとることができたというわけです。
ここから日本政府は、グローバルDSの指令を忠実に実行し、堂々と国会決議を経た法律を作って、日本国民の富を収奪し、グローバルDSに献上していくこととなるのです。