日本航空123便墜落事件
1985年8月12日、乗員乗客524人を乗せた、日本航空123便が、墜落しました。
事件の概要は、ウィキペディアによると、
123便は東京国際空港(羽田空港)発大阪国際空港(伊丹空港)行きの定期旅客便で、伊豆半島南部の東岸上空に差し掛かる頃、機体後部の圧力隔壁が破損、垂直尾翼と補助動力装置が脱落し、油圧操縦システムを全喪失、操縦不能に陥り迷走飛行の末、午後6時56分30秒群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(標高1,565メートル、通称御巣鷹の尾根)に墜落した。
乗客乗員524人のうち死亡者数は520人、生存者は4人であった。この数字は2020年(令和2年)4月時点で単独機の航空事故の死亡者数として世界最多である。
となっています。しかし、みなさまの予想どおり、この記述には多くの嘘が含まれています。
現在では、生存者の証言、搭乗者が撮影したカメラの映像、現場の遺留物や写真、関係者の回想書籍、など、様々な資料が残されていますので、それらをもとに、実際にこの日に、何が起きたのかを、振り返ってみたいと思います。
123便は撃墜されていた
まずは以下の地図を見ながら、事件当日の123便の航跡を振り返ってみましょう。
1985年8月12日18時12分、日本航空123便(ボーイング747 乗客509人、乗員15人、合計524人)は、大阪に向け、羽田空港から飛び立ちました。
このときちょうど、日米合同軍事演習が行われていました。相模湾、伊豆沖には最新鋭護衛艦や潜水艦が出動し、陸ではゲリラ訓練場となっている御巣鷹山に、対空ミサイルが配備され、対ゲリラ用の毒ガス・火炎放射器を装備した自衛隊の特殊部隊が集結していました。
もちろん、これらの部隊は、これから起こることをあらかじめすべて想定して、布陣されていたと考えるのが妥当だと思われます。
オレンジ色のミサイル
18時18分、123便は、相模湾の高度3500メートル上空を飛行していました。右に江の島、その先に富士山が見えるあたりです。
このとき、長濱機長は、機体レーダーによって、斜め右前から近づく飛行物体を確認します。近づいたところを目視すると、それはオレンジ色のミサイルでした。
亡くなった乗客の小川哲さん(41才)もこれに気付き客席からカメラで撮影しました。
このカメラは後に遺族に渡り、現像したところオレンジ色の飛行物体が写りこんでいたとのことです。
18時24分、ミサイルが垂直尾翼に命中、最後部ドアと尾翼を損傷しました。123便は、このミサイルが突き刺さったまま飛行を続けます。垂直尾翼の7割を失った123便は、正確な航路調整ができなくなり、蛇行しながら飛行することになります。
生存者の一人、最後部座席に座っていた、川上慶子さんによると、この時、トイレ付近の天井に、1.5m四方の穴が開き、付近が真っ白になったそうです。その後、酸素マスクが下りてきて、スチュワーデス(当時の呼称)の指示で、乗客がそれを付けたそうです。
ちなみにこのミサイルは、伊豆半島沖に展開していた海上自衛隊の護衛艦「まつゆき」から発射された、チャカ2型、艦隊空ミサイルと思われます。射撃訓練用のミサイルなので、弾薬は入っておらず、全体がオレンジに塗られています。
海上自衛隊では、訓練用ミサイルをオレンジに塗装する習慣があるのです。米軍にはこの習慣はありませんので、最初に当たったこのミサイルが、自衛艦が発射したものであることは間違いないでしょう。
この時、護衛艦まつゆきは、進水したばかりであり、試験航行が行われていました。艦上では、アメリカ人技師による、艦載ミサイルの整備が行われていました。
調整後のテストとして、無人標的機ファイアー・ビーを飛ばし、それを狙ってチャカ2を発射したところ、ファイアー・ビーが123便に当たり、ちょうどその瞬間、チャカ2が命中したとのことです。
しかし、そんなうまい偶然があるでしょうか。おそらくまつゆきのミサイルテストをしていたアメリが人技師が、ファイアー・ビーとチャカ2を操作し、123便にわざとあてた、と考えるのが妥当でしょう。
しかし自衛隊は大慌てです。当時の士官が、
「えらいことをした。無人標的機を民間機に当ててしまった。今、百里基地から偵察機2機に追尾させているところだ」
と語った証言が残っていますので、この時点の海上自衛隊の認識としては、「ミサイル誤射」であったことがわかります。
スコーク77発令
高濱機長は、ミサイル命中のわずか7秒後に、緊急信号「スコーク77」を管制に向けて発信しています。このスコーク77というのは、通常のSOSと異なり、「当機は敵によって撃墜されようとしている」という意味の信号です。
機長は6分前からミサイルをレーダーで視認していますので、命中の瞬間「撃墜される!」という救援信号を発令したわけです。
これをうけた埼玉県所沢市にある東京航空管制部は、即座に123便と、日本語での通信を開始しました。
パイロットと管制との通信は通常すべて英語で行われています。日本語での通信は異例中の異例です。撃墜されるかどうかというときに、英語なんて使ってられないということです。
自衛隊機の追尾
スコーク77は撃墜信号ですので、それを受けた航空自衛隊は、即座にスクランブルをかけ、敵機との戦闘態勢に入ります。
この時、信号発令直後に、茨城県の百里基地から、航空自衛隊のF-4ファントム戦闘機2機が飛び立ち、現地に向かいました。
ちなみに首都圏には埼玉の入間基地など多くの航空自衛隊の基地がありますが、いわゆる戦闘機が配備されているのは、この百里基地だけです。
123便は、伊豆半島を横切り、静岡県に入って北上を開始します。
機長は、アメリカ軍横田基地に向けて緊急着陸の許可を申し入れます。しかしこれはあっさり拒否されます。それはそうです、犯人に助けを求めてもムダというものです。
富士山の東で、百里基地から出たファントムが合流し、123便の後ろに2機のファントムが追尾する形になります。
このジャンボジェットの後ろに2機のファントムが追尾する姿は、多くの方によって目撃されています。
ファントムは123便と連絡を取り、群馬県の御巣鷹山に誘導します。高濱機長は長野県のレタス畑への緊急着陸を希望したようですが、自衛隊機が拒否して、群馬の山中まで誘導する形になったわけです。
アメリカ空軍F-106発進
123便が大月を過ぎたあたりで、横田基地から、機体が真っ黒に塗られた、アメリカ空軍のF-106「デルタダート」2機が飛び立ちます。デルタダートは群馬県の御巣鷹山に向かいます。
このF-106デルタダートは、歴代のアメリカ戦闘機の中で、最大の破壊力を持つといわれる戦闘機です。現在最新鋭のF-22やF-35よりも、ある意味強いです。
デルタダートの武装は、AIM-4E/F/G スーパーファルコン空対空ミサイルと、AIR-2A ジニー空対空核弾頭ロケット弾です。
スーパーファルコンはごく一般的な空対空ミサイルですが、問題はジニー空対空ロケット弾です。このロケット弾には核弾頭が搭載されています。
デルタダートは、アメリカ空軍で後にも先にもただひとつの、核ミサイルを発射できる戦闘機なのです。
123便の撃墜!
123便が御巣鷹山上空に差し掛かるころ、2機のF-106が123便に追いつき、後方から、スーパーファルコン空対空ミサイルを発射します。
必死で体勢を立て直そうとしていた123便に、3~4発のミサイルが命中、機体は失速し、御巣鷹山の山中に墜落します。
18時56分26秒、東大地震研究所は、群馬県の山中に墜落した、123便のものと思われる振動をキャッチします。
123便は、この時、アメリカ軍によって撃墜されたのです。
核ミサイルによる機体破壊
そしてそのわずか5秒後、東大地震研究所は、S派から始まる独特の波形の15秒にわたる表層地震をキャッチします。
それと同時に、御巣鷹山周辺の住民が、空高く立ち上るきのこ雲を目撃しています。
そうです。F-106デルタダートは、ここで、ついに、ジニー核弾頭ロケット弾を使用したのです。
核ミサイルによって123便の機体はバラバラになり、この時機中に残っていた乗員・乗客は消し炭となりました。
このアメリカ軍による核ミサイルの使用は、2009年8月に元日本航空職員の佐宗邦皇氏が講演によって指摘しています。
佐宗氏は、この公演中にペットボトルのお茶を飲み、そのまま帰らぬ人となりました。
あきらかに、ディープステートによる暗殺と思われます。佐宗氏の指摘は正しかったということでしょう。
ちなみにこの後、123便がプルトニウムを積んでいたという情報がネット上に出回ります。
しかし私はこれは、アメリカ軍による核ミサイル攻撃で、放射能汚染された現地の状態を、カムフラージュするための、偽情報であると考えています。
自衛隊対空ミサイルによる迎撃
そしてこのタイミングで、すでに配置についていた、陸上自衛隊の地対空ミサイル、レッドアイが火を噴きます。
上空で旋回していた航空自衛隊F-4ファントムと、アメリカ空軍F-106デルタダートは、地上からのミサイル攻撃によって撃墜されました。
これはアメリカ軍、および実行に加わった自衛隊の了解のもとになされた、証拠隠滅と思われます。
ここまで、123便が羽田を飛び立ってから、実に1時間もかからないうちに、行われていたことがわかります。
この状態で、123便はバラバラになり、そのほかにも4機の戦闘機の残骸が、現地に散乱していたわけです。
また墜落時に機体から投げ出された乗客が、この時点で多数生存していました。
この時点で即座に救助活動を始めれば、多くの人が命を救われていたことでしょう。
しかし日本政府は、これから16時間の間、人命救助を拒否し続けました。
そこで行われていたことは、徹底的な証拠隠滅だったのです。