黒船襲来
1853年、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊の艦船4隻が、浦賀沖に来航しました。 本物の蒸気船を始めて目の当たりにした日本人はびっくり仰天しました。
アメリカが攻めてくる!日本は占領されてしまうぞ!と人々は恐怖にかられます。
しかしここからの反応が、それまで欧米諸国の植民地にされてきたアジア諸国と、日本とでは決定的に違いました。
江戸幕府250年の統治のもとで、泰平の眠りについていた日本人は、黒船来航により、瞬時に世界の中で自らが置かれている立場を理解します。
そしてすぐさま気を取り直し、粛々と欧米諸国への対抗策を講じ始めるのです。
蒸気船と、西洋の大砲、銃器の優位性を把握した江戸幕府は、すぐさま自前の製鉄所の建造に取り掛かります。
なんと黒船襲来から7か月後の翌1854年1月には、静岡県伊豆の国市に、韮山反射炉1号機を建設、自国産の鉄鋼の生産に成功します。
4年後の1857年には、18ポンドカノン砲の生産に成功、最新式の大砲の自国生産を軌道に乗せます。
ペリー来航直後の1853年10月には、浦賀で蒸気船の建造が始まり、8か月後の1854年6月には幕府自前の黒船「鳳凰丸」が完成しています。
4年後の1857年の時点で、江戸幕府は、7隻の黒船からなる蒸気船艦隊を所持しており、この時点でペリー艦隊の戦力を大きく上回っています。
もしもペリーがもう一度やってきたとしたら、瞬殺できるレベルに到達していたわけです。
このスピード感と実行力は、今見てもすごいと思います。
日本と他のアジア諸国の発想の違い
この時点ですでに、西洋諸国の侵略に対する、日本と、他のアジア・アフリカ諸国の対応は、まったく異なったものであることがわかると思います。
アジア・アフリカ諸国は、西洋の艦隊とその圧倒的な武力を目の当たりにして戦闘意欲をなくしてしまい、やられるがままに侵略されてしまいました。
国内は多数の勢力に分裂し、それぞれの勢力が別の西洋諸国と結びつき内戦となったところに付け込まれ、どんどん西洋諸国の勢力が大きくなっていきました。
これに対して日本は、西洋の艦隊とその圧倒的な武力を見て、すぐに、自分たちも同等の武力を持とうと決意し、それをすぐに実行に移し、実現してしまいました。
日本では内戦となっても、西洋諸国と結びついて自分の勢力を伸長させようとする勢力はなく、自分たちの力だけで戦い抜いているため、西洋諸国の付け入るスキはありませんでした。
明治維新と富国強兵
その後、国内において様々な紆余曲折を経て、1868年、日本は明治維新を達成します。
明治政府の政策を一言で表すならば、「非常事態対応政策」と言えるでしょう。
何が非常事態といえば、もちろん、迫りくる西洋諸国の侵略です。それに抗して自国を防衛し、自立した国家として繁栄していくにはどうしたらいいか、ということを考え抜いた政策が見事に実行されています。
天皇を神とする国家神道のもとに国論を統一し、法の支配を実現して法治国家を建設し、産業を振興させ国力を増強し、軍備を整え西洋列強に負けない軍事力を所持し、国会を開設して民意をくみ上げ、官僚組織を整備して中央集権をいきわたらせ、教育制度を整備して民度をあげ、インフラを整備して・・・などということをすべて、40年余りの間に成し遂げてしまったわけです。
現代においても明治維新について文句を言っている人はたくさんいます。軍国主義だとか、人権が軽視されているとか、他国を侵略したとか、天皇が神なんてありえないとか、日本古来の価値観とマッチしていないとか、さらには、天皇がすり替えられているとか、李家を中心とする朝鮮人に乗っ取られているとか。
しかしこれらすべてひっくるめて考慮したとしても、明治政府の政策は、
「あの状況ではああするのがベストであった」といえると思います。
圧倒的な生産力・軍事力を持ち、すでに他のアジア・アフリカ諸国を植民地として支配した、西洋諸国が日本に狙いを定めているという状況の中で、悠長なことを言っていたらあっという間に日本も植民地にされてしまっていたでしょう。
その状況の下では、西洋諸国の侵略から自国を守るには、日本自身も西洋諸国に対抗できるような生産力・軍事力をつけていくしかない、と喝破し、それを短時間のうちに実行し、この国を守り抜いた明治時代の先人たちには、心から感謝と敬意をささげたいと思います。
日清・日露戦争と韓国併合
明治時代後半から、日本は2つの大きな戦争を実行しました。日清戦争と日露戦争です。この2つの戦争に勝利した日本は、その後大韓帝国を併合します。
この時点のアジアはちょうど下の地図のようになっています。
この流れについて歴史的事実だけを並べると次のようになります。
1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本と清の間で日清戦争が行われた。李氏朝鮮の地位確認と朝鮮半島の権益を巡る争いが原因となって引き起こされ、主に朝鮮半島と遼東半島および黄海で両国は交戦し、日本側の勝利と下関条約の調印によって終結した。
講和条約の中で日本は、清国に李氏朝鮮に対する宗主権の放棄とその独立を承認させた他、清国から台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲され、また巨額の賠償金も獲得した。しかし、講和直後の三国干渉により遼東半島は手放す事になった。
1904年(明治37年)2月8日から1905年(明治38年)9月5日にかけて大日本帝国とロシア帝国との間で日露戦争が行われた。朝鮮半島と満州の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされ、満州南部と遼東半島がおもな戦場となったほか、日本近海でも大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国の仲介の下で調印されたポーツマス条約により講和した。
講和条約の中で日本は、朝鮮半島における権益を認めさせ、ロシア領であった樺太の南半分を割譲させ、またロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権を獲得した。
1910年(明治43年)8月29日、「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合して統治下に置いき、日韓併合が行われた。
ウィキペディアより、一部改
みなさん歴史の授業で習っておなじみだと思います。しかしこの事実について、どう捉えるかは、それぞれの立場によって全く違います。
日本の立場
日本から見た、日清・日露戦争と韓国併合派、すべて朝鮮半島問題です。朝鮮半島に袁世凱率いる清軍が駐留して、半島を制圧しようとする事態に陥ったため、日清戦争を行い、その後ロシア軍が朝鮮半島に駐留し、中朝間に塹壕線を築くのを見て、日露戦争を始めています。
2つの戦争の戦争目的は、国防及び朝鮮半島の解放です。
朝鮮半島は、日本列島に向けて突き出た剃刀の刃です。ここを敵国に制圧され、海軍基地を作られると、日本本土の防衛が危うくなります。
また朝鮮半島は、日清戦争以前は李氏朝鮮が統治していましたが、これは完全に清の属国でした。これを開放し、朝鮮を独立させて友好関係を結び、これを緩衝地帯として日本本土を防衛しようという趣旨です。
実際に日清戦争で日本が勝利し、朝鮮半島は、大韓帝国として独立しました。史上初めて、朝鮮半島に独立国ができたわけです。
日本は独立した大韓帝国と、上下関係に基づかない対等な国家同士として、友好関係を樹立することを望みました。
しかし大韓帝国皇帝、高宗は、国内にロシア軍を引き入れ、王宮をロシア大使館内に移し、日本の影響力を排除しようとしました。
そこで日本はロシアと一戦を交え、これに勝利してロシア勢力を大韓帝国国内から追い出し、その後、大韓帝国を併合したわけです。
併合と植民地支配は全く違います。
併合というのは、日本国の一部として、完全に日本国の他の部分と同じ扱いをするという意味です。
朝鮮の人たちは、日本国内を自由に移動できましたし、日本本土で就職したり、本土の学校に通ったり、はては日本軍に入って将校となることも可能でした。
日本は朝鮮に毎年多額の出資をして、インフラを整備し、学校を作り、教育を行い、産業を振興させました。当時の記録では朝鮮半島の収支は毎年2400万円の赤字でした。国家予算が8億円の時代に、これだけの投資を毎年行っていたのです。
朝鮮の人たちは、平和の下での繁栄を謳歌し、併合の時代に朝鮮半島の人口は実に10倍となりました。
西洋諸国の植民地では、現地の人々が本国に入国することはあり得ません。植民地は収奪される一方で、収支が赤字になることもあり得ません。もし赤字になったならばそんなもうからない植民地はすぐに手放してしまうでしょう。
植民地では基金が頻発し、人口は半減、もしくは3分の1になってしまうこともありました。
植民地と併合では、基本的な発想が全く違うのがお分かりと思います。
植民地を開放し、上下関係ではなく、対等な関係の下で、ともに繁栄していこうという日本の理想は、まずはじめに朝鮮半島で開花し、実行されていったといえます。
以上詳しい話は拙著、
を、ご参照ください。
西洋諸国の立場
しかし日本の理想は、この時点では他国に理解されることはありませんでした。
西洋諸国は、そもそも国家間における対等な友好関係というのが理解できないようです。
彼らが考える国家間関係とは、支配・被支配の関係、すなわち植民地と宗主国の関係か、同等の軍事力の下ににらみ合っている関係、すなわちパワーバランスの関係の2通りしかありません。
西洋諸国は、お互いにパワーバランスをもって、にらみ合った状態で、植民地の争奪戦を繰り広げ、アジア・アフリカ諸国を支配・収奪していきました。
ところが彼らが次の獲物にしようとしていた日本が、あっという間に近代化をなしとで、西洋諸国の一角であるロシアを倒し、朝鮮を併合したのです。
これは彼らから見ると、日本という新たな宗主国が誕生し、ロシアのもとから植民地を奪い取り、自分たちの植民地にして収奪を開始した、と見えるのです。
自分たちのライバルが一国増えた、これは警戒しなければならない、という感じです。
清国・朝鮮の立場
清や朝鮮から見ると、これまた違った風に見えます。彼らは2000年余りにわたって、東アジアで華夷秩序のもとで過ごしてきました。
これは中国を宗主国とし、周辺国を朝貢国とする秩序です。中国の王朝が中華に君臨し、他の諸国はこの支配下の属国として中国に朝貢し、中国に臣従するという関係です。
韓国併合は、清から見ると、自分の臣下であるはずの日本が、最後に残った朝貢国である朝鮮を奪い取り、自分の朝貢国に加えた。これは華夷秩序を乱すとんでもない冒涜である、と見えます。
併合された朝鮮のほうも、それまで同じ朝貢国だった日本が、朝貢国としては格上の自分たちを占領して自国に併合するなんて、華夷秩序を乱すとんでもない冒涜である、と考えるわけです。
カバール・ディープステートの立場
「白ウサギを追え!」のシリーズで解説した、ディープステートは、ごく最近に出現したわけではありません。彼らは紀元前から存在し、様々な形態をとって、いろいろな国々を陰から支配していました。
この当時は、彼らはユダヤ財閥の力を背景に、西洋キリスト教諸国に入り込み、全世界を植民地として支配する計画を進めていました。
彼らの全世界支配計画の第1弾が、15世紀から始まった、植民地システムだったというわけです。
彼らにとっては、400年かけて進めた支配計画が、あと2国で完成、というときに、そのうちの一国がいきなり牙をむき、自分たちの計画を阻止しに来た。これは絶対につぶさなくてはならない、というように見えるわけです。
日本という名のイレギュラー
以上のように、日本は西洋諸国の圧力に際して、明治維新を断行し、近代化を実現、西洋諸国に対抗しうる力をつけて、西洋諸国の一角を倒し、一つの植民地の解放に成功しました。
これは他の国々から見ると全く予想外の出来事であり、完全なるイレギュラーでした。日本はこれからさらに力をつけて、植民地の解放に邁進していくことになります。しかしこの時点では、日本が考えていることを理解している国は一国もありませんでした。
前述の動物園のたとえでいうと、次のようになるでしょうか。
最後に残った2つの草食動物の檻(日本、タイ)の中の一頭(日本)が、もともと持っていた角に加えて、鋭い牙と爪を身につけ、肉食動物たちに戦いを挑んだ。彼は肉食動物の一頭(ロシア)を倒し、その支配下にあった檻をひとつ(朝鮮)解放した。
彼は心優しい獣であった。自分が解放した檻の中の草食動物を支配しようとはせず、対等の友人として仲良くし、ともに繁栄していこうとした。しかし彼の考えは、当の自分が解放した草食動物も含めて、誰も理解することはできなかった。
肉食動物たちは、彼を、新たに登場した肉食動物として認識し、警戒を強めた。