密室での後継者選び
2000年4月2日、小渕恵三首相が脳梗塞で緊急入院しました。
翌4月3日、自民党では、森喜朗(幹事長)、青木幹雄(官房長官)、村上正邦(参院議員会長)、野中広務(幹事長代理)、亀井静香(政調会長)の5人が、
赤坂プリンスホテルで緊急会合を開き、青木幹雄を総理大臣臨時代理とし、後継の総理大臣を森喜朗とすることを決定しました(赤プリ五人組)。
会談中、村上正邦の「あんたがやればいいじゃないか、幹事長だし」との発言により、後継総理に森喜朗が就任することが決まった、と言われています。
これをうけて、4月5日、森喜朗が内閣総理大臣に就任します。
まあ、なんというか、まだ小渕恵三首相が死んでもいないのに、手回しのいいことです。
ようするに、この赤プリ5人組こそが、小渕恵三を殺害した犯人グループであり、グローバルDSの手先だということです。
あらかじめ死ぬのがわかっていますから、素早い対応が取れたわけです。
失言の嵐
グローバルDSは、強引な手段で、日本における政権奪取に成功しました。
しかし、その前途は多難でした。
まずは、なんで小渕恵三が倒れた後の後任首相という重大事が、密室でたった五人で決められたんだ、党全体で相談しろよ、という当然の批判にさらされます。
これに対して赤プリ5人組は、小渕恵三が倒れた4月2日の夜に、青木官房長官が小渕首相と単独で面会し、後任首相の人事の指示を受けた、と抗弁します。
しかし、青木官房長官は実際には面会していなかったのではないかとか、脳梗塞で意識不明の小渕首相が、なんで後任人事の指示を出せるんだ、と批判されます。
なんやかんだでグダグダのうちに森政権は発足しました。
森政権の発足時の支持率39,9%は、歴代最低記録です。
発足後も森内閣は迷走を続けます。
マスコミは森首相の失言を連日取り上げ、たたきまくりました。
なかでも2000年5月15日の演説における、「日本は天皇を中心とした神の国」という発言が、最も物議を醸したようです。
森喜朗の政策を一言で言い表すならば、国民の富を根こそぎ収奪、というものです。
小渕恵三が進めていた金融緩和と大規模公共投資をすべて取りやめ、緊縮財政を敷いたため、せっかく回復しかけていた景気は一気に冷え込みました。
国民は未来への不安から、貯蓄を増大させましたが、日銀をはじめとする各種銀行は、日本国内に融資先を見出すことができず、アメリカ国債をはじめとする外国債、外国株に投資して、欧米DS企業に融資しました。
国民の収入は減り、積み上げた資産が外国へ本格的な流出をし始めたわけです。
もちろんこれは、グローバルDSが最初から意図していたことです。
これを必死に止めていた小渕恵三を排除し、さっそく牙をむき始めたというわけです。
シャッター商店街の出現
橋本龍太郎が誤って導入してしまい、小渕恵三が施行を止めていた、各種グローバル経済政策が、つぎつぎに施行されるようになったのもこの時期です。
まずは大規模小売店舗法、大店法の廃止です。
橋本政権で、緩和から廃止の法制定が行われたのは、以前述べたとおりですが、実際に廃止になったのは、森政権時の2000年6月1日のことです。
この日以来、地方都市の幹線沿いに、フードコートを備えた大型のショッピングセンターが立ち並ぶようになり、地元の小さな商店街は次々に閉店を余儀なくされました。
シャッター商店街とよばれる、閉店した店舗が立ち並ぶ商店街が、全国の地方都市に出現し始めたのはちょうどこのころです。
加藤の乱
グローバルDSに乗っ取られた日本政府の惨状を見て、心を痛める、良心的な政治家はわずかながらも存在していました。
小渕恵三の死によって民衆派の国会議員は絶滅していましたが、日本DSの国会議員はまだまだ勢力を保っていました。
乗っ取られたとはいえ、森内閣は森首相の様々な失言も相まって国民の評判が悪く、
2000年11月時点で支持率は18.4%まで落ちていました。
そしてこのタイミングで、日本DSの最後の抵抗が、自民党内の森政権打倒運動という形で実行に移されます。
11月初旬に、野党が森内閣への内閣不信任案提出の動きを見せると、宮沢内閣の官房長官で、中曽根内閣では防衛庁長官を務めた、加藤紘一が、自らの支持者とともに、これに賛成することを宣言しました。
加藤紘一は、当時閣僚ではありませんでしたが、宮澤喜一から引き継いだ宏池会の会長を務めており、宏池会のメンバー45人の支持を固めていました。
これに加えて、加藤の盟友、山崎拓が率いる、近未来政治研究会の19人を合わせると、合計64人になります。
当時の衆議院は自民党が過半数を33人上回っていましたが、この64人が賛成票を投じると、内閣不信任案が可決され、森内閣総辞職、解散総選挙に持ち込むことができるというわけです。
これは「加藤の乱」と呼ばれています。
加藤の乱は、国民の注目を浴び、マスコミは連日これを放送しました。
加藤紘一自身が、ニュース番組に何度も登場し、国民の支持を求めました。
また加藤は、1995年にわが国に導入され、だんだん市民権を得てきた、インターネットを使って、国民に支持を呼びかけました。
まだSNSは存在していませんでしたが、加藤は、有名になってきたばかりの掲示板サイト「2ちゃんねる」(現5ちゃんねる)を使って、情報を集め、書き込みを行って、自らの意見を発信していきました。
この加藤の乱が、日本で政治活動にインターネットが用いられた最初の例です。
加藤紘一自身は、「不信任案は100%可決する」と自信満々でしたが、水面下でおひざ元の加藤派、山崎派の切り崩し工作がちゃくちゃくと行われていました。
かつての盟友だった野中広務が大々的に加藤に反対意見を述べる一方で、水面下で切り崩しに大活躍したのは、当時清和会の会長だった、小泉純一郎でした。
小泉は、加藤、山崎とともに、自民党ニューリーダーと目される「YKK」の一員でした。Y(山崎)、K(加藤)、K(小泉)ですね。
加藤は小泉を盟友だと考え、計画を事前に打ち明け、了解を得たと思っていたようです。
しかし小泉は、とっくの昔に、グローバルDSの手に落ちていたのです。
このとき小泉は、加藤派、山崎派の議員と一人一人会談し、自民党の公認権を盾に、不信任案への賛成を思いとどまらせていったといわれています。
不信任案が可決されたら、解散総選挙になる、加藤に賛成した議員は、直後の選挙で公認しないよ、それでもやるの? といって、ひとりひとり脅していったわけです。
これはのちの郵政解散の時の手法と全く同じです。
ほとんどの自民党政治家は、日本の未来よりも、国民の幸せよりも、自分の当選と、国会議員の地位の保全に一生懸命ですので、この手法は抜群の効果を持つわけです。
結局、衆院本会議の前日、11月20日の時点で、加藤派24人、山崎派10人が切り崩され、不信任案反対に回ることになりました。
どうやっても過半数に足りないことを悟った加藤紘一は、残りの宏池会のメンバーとともに、翌21日の本会議を欠席することを選択します。
内閣不信任案は、賛成190人、反対237人、欠席51人、退場1人で否決されました。
日本DSの最後の抵抗は、ここに潰えることとなったのです。
ちなみに、退場1人は、保守党の松浪健四郎議員です。
彼はこの日、本会議で発言中に、民主党の永田寿康議員にやじられ、コップの水を浴びせて退場処分になっています。
政府機関法人化
加藤の乱鎮圧の一か月後、2001年1月6日、中央省庁再編が行われました。
これはまたもや橋本政権が法制化し、小渕恵三が止めていた法律の施行です。
それまで1府22省庁あった中央省庁は、1府12省庁にまとめられました。
DSとしては、あんまりいっぱいあると支配するのが大変だ、ということのようです。
いちばん大きな変化は、1府のところです。総理府が内閣府に代わっています。
内閣府は総理府以外にも、経済企画庁、 沖縄開発庁 および、総務庁と科学技術庁と国土庁の一部を合併させた、スーパーマンモス省庁です。戦前の内務省をほぼ復活させた感じです。
これ以外にも、外局として、宮内庁、公正取引委員会、国家公安委員会、個人情報保護委員会、カジノ管理委員会、金融庁、消費者庁、こども家庭庁、および防衛庁(2007年に防衛省に昇格し独立)があります。
すごいですね、金融システムの設計・運営、皇室の管理、公安警察や防衛、さらには直接利益を上げるためのカジノや、児童人身売買のためのこども庁まで管轄に入っています。
DSがやりたいことがすべて一つにパッケージされている感じです。内閣府一つ管理すれば、それで済むようにうまく設計されていますね。
このほか、大蔵省が財務省に名称が変更され、いくつかの省庁が合併して、総務省、文部科学省、厚生労働省、経済産業省、国土交通省、環境省が新設されました。
この時、各省庁は法人化され、法人番号が振られています。
例えば内閣府ならこんな感じです。
法人番号、および会社法人等番号がしっかり記載されていますね。
ほかの中央省庁も、すべて法人化され、法人番号が振られています。
これについては、2001年時点では、とりあえず法人化が実施され、2015年のマイナンバー法に先立って2006年から中央省庁に法人番号が割り振られるようになり、
さらには、他の政府機関や、都道府県庁や市町村役場、なども順次法人化され、一般の株式会社とともに、法人番号が振られていき、
その後2015年10月5日のマイナンバー法施行に伴い、日本国内のすべての組織・個人に、法人番号・個人番号が割り振られるに至った、という経緯のようです。
国民がマイナンバー導入を知ったのは2012~13年あたりだと思いますが、それより10年以上前から、着々と計画は実行に移されていた、というわけです。
じつはこれこそが、日本においてグローバルDSが最もやりたかったことです。
もともとは日本銀行が、一般の株式会社で、日本政府の手を離れたDS直轄企業だったわけですが、これを日本国内すべての機関で実行する、というのがDSの悲願だったわけです。
森喜朗政権が発足し、グローバルDSが政権を取った瞬間、とりあえずまず最初にこれを実現してしまおう、というわけです。
現在、いわゆる「日本政府」は存在していません。各省庁や政府機関は、すべてDSから直接指令を受けて動く法人であり、国民の意志とは無関係に、DSの指令を受けてそれを実行する機関と化しているのです。
また省庁再編直後の1月27日、森喜朗は、現役総理大臣として初めて、グローバルDSの経済政策会議である、ダボス会議に出席し、そこで演説しています。
えひめ丸事故と森喜朗の退陣
森喜朗政権は、発足当初から支持率が低く、何とかごまかしながら政権を運営している状態でした。
グローバルDSにとっては、やっと取れた最初の政権だったので、なんとか維持したかったようですが、2001年1月の時点で、支持率は16.8%まで低下し、どうにもならない状況でした。
これにとどめを刺したのが、2001年2月10日に起きた、えひめ丸事故です。
アメリカ合衆国ハワイ州のオアフ島沖で、練習航海中だった愛媛県立宇和島水産高等学校の練習船えひめ丸に、アメリカ海軍の原子力潜水艦グリーンビルが衝突、沈没させたという事件です。
この事故によって、えひめ丸に乗っていた、教員・乗組員5人と生徒4人が死亡しました。
海洋で航海中の練習船に、原潜が海中から浮上してきてそのまま下から衝突し、練習船が木っ端みじんになるという、たいへんめずらしい事故でした。
痛ましい事件ではありましたが、普通に対応すれば、政権の存続が危うくなることはなかったでしょう。
しかし、事件に対する森首相の対応は、きわめて稚拙なものでした。
森首相は、この事件の一報を受けた時、ゴルフ場でゴルフの真っ最中でした。
ふつうなら、知らせを聞いて、ゴルフを中断し、官邸に帰って事件の対応の指揮を執る、という行動をするはずですが・・・。
森首相は、事件の知らせを受けた後も、そのまま1時間半にわたって、残りの3ホールのプレイを続行し、ゴルフが終わってからゆっくり帰京する、という行動をとりました。
この行動がマスコミに報道され、国民の怒りが爆発します。
支持率はあっという間に10%を割り込み、8.6%という、歴代2位の低支持率をマークしました。
森政権は完全にレームダック状態となり、もはや何もできなくなってしまいました。
結局森喜朗は、2001年4月、総理大臣を辞職します。
小泉純一郎登場
森喜朗退陣後の自民党総裁選には、橋本龍太郎、麻生太郎、亀井静香、そして小泉純一郎が出馬しました。
この時本命視されていたのは、橋本龍太郎です。彼はかつての首相在任時の経済政策の失敗に気づき、もう一度首相をやって経済復興を成し遂げたいと考えていました。
しかしDSは、4人のうちで唯一のグローバルDS候補である、小泉純一郎を徹底的にバックアップします。
せっかく政権を取ったのに、ここで負けたら元も子もない、というわけです。
当時国民に人気のあった田中眞紀子(田中角栄の長女)を小泉につけ、マスコミやCIA、各種カルト宗教団体を総動員して小泉を応援させます。
「郵政は民営化だ!」
「自民党をぶっ壊す!」
「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力!」
と叫ぶ小泉の姿が連日マスコミで報道され、街頭演説では数万の観衆が押し寄せ、大衆の圧倒的な支持を得て、「小泉旋風」と呼ばれる現象が起きました。
小泉は自民党員による予備選で地滑り的勝利をおさめ、4月24日の議員による本選挙でも圧勝して、自民党総裁に選出されました。
そして4月26日の特別国会で、首班指名され、第87代内閣総理大臣に就任することとなったのです。