残地諜者が電通に集結
残地諜者たちは、ほとんどの場合、日本を離れた他国において、その国の人間に成りすまして生活していました。
しかし、少数ながら、日本本国に帰還し、アメリカによって占領された日本国内で、国家の復興を胸に抱き、活動していた人たちもいました。
そのような、日本国内に残る残地諜者たちが、多数集まり、本拠地としていたのが、電通です。
電通は、設立自体は1901年と古いのですが、初期のころは「日本電報通信社」という社名で、通信社として活動していました。広告は余興という感じです。
その後、2次大戦前の1936年、通信社業務を切り離し、広告代理店となります。
終戦時点では、細々と、国内で広告代理店業務を続けていました。このとき、常務取締役で、47年に第4代社長に就任した、吉田秀雄という人物が、電通を巨大企業へと育て上げていきます。
高橋まつりさん過労死事件で有名になった、電通の「鬼十則」を作った人物ですね。
この吉田秀雄が、日本における残地諜者の取りまとめ役、すなわち「上忍」です。
吉田は、戦前、戦中に培った人脈を駆使して、電通にかつての南満州鉄道の経営陣・調査部員、満州国通信社の経営陣などを大量に受け入れていきます。
南満州鉄道調査部は、大日本帝国陸軍諜報部満州支所とほぼ同じ組織です。満州国は建前上は独立国だったので、さすがに外国である日本の陸軍が直接オフィスを構えることはできなかったので、ここを隠れ蓑にしていたわけです。
ここを拠点に陸軍は諜報活動を行い、官僚であった岸信介の指揮の下で満州における麻薬の密売を行って、日本統治の資金を稼いでいたのですね。
この満州において諜報活動を行っていたかつての陸軍のスパイたちが、総勢24人、電通に集結しました。吉田本人も入れると、実に当時の社員352人中25人が、残地諜者という、すごい集団です。
当時銀座にあった電通本社は「第2満鉄ビル」と呼ばれるようになりました。GHQ に解体されたはずの、大日本帝国陸軍諜報部が、銀座に移転し、再び活動を開始したイメージでしょうか。
電通の隠された役割
電通は、残地諜者の本国日本におけるとりまとめ役として、様々な影の役割を実行していました。
まずは北朝鮮における核開発の支援です。北朝鮮で核開発に携わっていた日本人の技術者たちの多くは、かつての南満州鉄道の技術者たちです。電通経営陣にとっては、かつての自分の部下たちですね。当然全員顔見知りです。
技術者たちから必要な物資と、必要な人材を聞き出し、日本国内で手配して、帰還船に乗せて送り届ける、という核開発支援の役割です。
あとは東南アジア各地に散らばる残地諜者の支援です。北朝鮮経由で要望を聞き、資金と物資を調達して北朝鮮に送り、そこからアジア各地に送られるというシステムです。
各国で独立運動が開始されると、資金と物資を支援し、各国に残る陸軍の残党をその国に送って、独立軍に紛れ込ませる、独立支援活動です。
あとは、鎖国状態にある北朝鮮へ、日本国内に残る在日朝鮮人からの資金と物資を送り届け、必要な人材を日本から北朝鮮へと送り届ける、北朝鮮の国家運営の支援も行っていたようです。
さらには、マスコミを操作して、残地諜者たちに有利なように、日本国内の世論を操作する仕事です。すでに述べた、北朝鮮を「地上の楽園」として宣伝して、日本からたくさんの移住者を送り込む、というような仕事ですね。
こちらは、電通にとってはまさに本業なので、お茶の子さいさい、といったところです。
この時代の電通は、世界各地に広がる残地諜者網における、扇の要の役割を果たしていたといえるでしょう。
電通に迫るディープステートの魔の手
しかし、電通の内部には、着々とディープステートの魔の手が伸びていました。
電通に集結した残地諜者たちは、普段は広告代理店の業務を行っていました。彼らはこの業界は初めてでしたが、もともと基本的な仕事能力が違うので、電通はあっという間に成長し、日本の広告代理店の覇権を握ってしまいます。
会社はすさまじい勢いで巨大化し、10年後の1955年には、社員数2282名の大会社になっています。
これは相対的に、会社内の残地諜者の比率が低下していくことを意味します。
折から始まった高度経済成長に乗って、マスコミの広告料は増大し、電通の利益はうなぎのぼりに上昇し、社員の給料が増えていきます。
高給をもらった社員たちの中には、享楽的な生活をするものが増えていき、ディープステートの誘いに乗って、闇落ちする者が続出します。
会社の方針も、徹底的な利益追求型に変わっていき、残地諜者のストイックな感覚とだんだん合わなくなっていきます。
63年には吉田秀雄が死去し、65年には、かつての岸信介の右腕として満州の麻薬密売組織を切り回し、「麻薬王」とよばれた、里見甫が死去、68年にはかつての『満州日日新聞』社長で、満州における陸軍の広報を務めていた、松本豊三が死去するなど、電通に集結していた大物残地諜者たちが、次々とこの世を去っていきます。
結局当初は25人いた残地諜者たちは、死亡したり、会社を去ったりして、どんどん数が減っていきました。それとともに、電通の果たしていた影の役割はどんどん低下していきます。
結局74年の時点で、電通にいた残地諜者たちは、すべて死去するか、会社を去ることになり、電通の残地諜者支援機関としての役割が停止してしまいます。
ここから先、81年までの電通は、単なる広告会社となります。
拉致事件?の発生
電通が影の役割を停止したことにより、世界各地に残る残地諜者たちへの、本国からの補給が途絶えました。中でも一番困ったのは、もちろん北朝鮮です。
資金や物資はまだ、わずかに残った帰還船や、北朝鮮が所有する万景峰号などで送り続けることができたのですが、一番困ったのは人材です。
今までは、日本国内の人脈を使って、電通経営陣が人を見繕い、移住させてくれていたわけですが、これができなくなった以上、北朝鮮の側から日本国内の人物をヘッドハントするしかありません。
しかし北朝鮮は、日本国内の国情をよく知りませんので、例えば情報通信分野の技術者が欲しい、となったときに、日本国内でだれがその技術を持っているかの判定ができないわけです。
というわけで、とりあえず、迎えの人物を派遣して、在日朝鮮人からの情報を頼りに、該当する人物を探し出し、その人物に頼み込んで、北朝鮮へと移住してもらうことになりました。
この北朝鮮による人材のヘッドハントは、主に1977年から78年にかけて行われ、およそ17人の各方面における人材が、北朝鮮と相談して、納得ずくで、北朝鮮に渡航しています。
彼らは北朝鮮で、厚遇を受け、自らの意志で北朝鮮の発展に尽力しました。
しかし、のちに述べるある事件がきっかけとなり、彼らは自らの意志に反して北朝鮮に連れ去られ、強制労働させられたことにされてしまいます。
これが、のちに北朝鮮による「日本人拉致事件」と呼ばれることになるのです。
電通の陥落
80年代に入ると、電通の上層部はほぼ全員ディープステートメンバーとなり、電通に操られた日本のマスコミは、完全にディープステートの広報機関となりました。
この、電通の陥落を象徴する事件が、81年に行われた、電通とアメリカの広告会社、ヤング&ルビカムとの合弁会社の設立です。
ヤング&ルビカム自体は世界第10位の広告代理店ですが、この会社は世界1位の広告会社、イギリスのWWPグループの傘下です。
WWPはロンドンのシティにあって、ディープステートによる、世界中のマスコミの情報操作の司令塔となっている会社です。
この時点で、電通は、ヤング&ルビカムとともに、WWPの支配下にはいった、すなわち、ディープステートの広告塔の一部となった、という意味です。
これ以降、日本のマスコミの論調は一変しました。
かつて「地上の楽園」と言われた北朝鮮は、金一族の独裁制下にあって、恐怖政治が行われている国家とされ、一方で韓国は、民主的で、友好的な国であるということになりました。
さらには、従軍慰安婦問題、靖国神社参拝問題、歴史教科書問題などの、それまでほとんど問題とされていなかった問題が、続々と、マスコミによって捏造され、そのたびに、政府は中国・韓国に謝罪を繰り返し、賠償金を支払うようになっていきます。
かくして電通は、光の拠点から、一気に闇の司令塔に転落するという、歴史上類を見ない変貌を遂げた組織となったのでした。
「扇の要」電通の陥落は、日本国と北朝鮮、およびその他の東南アジア諸国にとって、計り知れない損害を与えた事件であったといえます。
レプタリアン芸能人の進出
余談ですが、電通の陥落後、闇の司令塔となった電通によって、レプタリアンが次々と、芸能界に進出していきます。
その先駆けとなったのは、ちょうど同時期にアイドルとしてデビューした、この人物です。
彼女は、福岡県久留米市の庄屋の家系で、一族に代々伝わる、ハイブリッドのレプタリアンです。
シェイプチェンジして、瞳が縦長になるシーンがいくつも残されていますね。
この方は自らがレプタリアンであることを公言しています。ラジオの番組で、
「○○さんは、レプタリアンだという噂がありますが」と聞かれたときに、
「そうなんですよ~。でも私なんかまだまだ下っ端です。
上にはもっとすごい方がたくさんいますよ。」
と、答えたというエピソードは有名ですが、これ以外でも随所に、レプタリアンネタを振って、笑いを取っています。
自らがレプタリアンであることを、まったく隠すつもりがない、というのが、他のレプタリアンとまったく異なる、この方の特徴であるといえます。
ともあれ、これ以降、芸能界には、多数の、純血種およびハイブリッドのレプタリアンが進出していくことになります。