笹原シュン☆これ今、旬!!

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マッドフラッド5 ナポレオンは被爆していた? フランス革命とナポレオン戦争の真実とは!?

18世紀後半の国際情勢

 公式の記録では、18世紀後半までの国際情勢はどうなっていたでしょうか。高校の世界史の時間に習いましたね。もう一度教科書を引っ張り出してみましょう。それによると

 

ロシア  1682年 ピョートル1世即位

     1703年 ペテルブルグ建設

     1721年 ロシア帝国成立、ペテルブルグに遷都

     1762年 エカチェリーナ2世即位

     1795年 第3次ポーランド分割、ポーランド消滅

イギリス 1600年 東インド会社設立 植民地支配本格化

     1688年 ファルツ戦争開始 第2次英仏100年戦争始まる

     1707年 スコットランド併合 グレートブリテン王国成立

     1776年 アメリカ合衆国独立

フランス 1789年 フランス革命

     1804年 ナポレオン皇帝に フランス帝国成立 

 

なんて感じになっていますね。

 

 これはもちろん半分真実で半分嘘です。以下の記述では、これらの材料を用いて、マッドフラッドの観点から、真実の歴史の再構築を試みてみたいと思います。

 

世界における3大勢力

 以前述べたように、17世紀以前の世界は3つの勢力に区分されていたと考えられます。タルタリア帝国、DSローマ、アジアです。

 

 どれもフリーエネルギー文明を擁していましたが、建物の様式が異なっていたのは以前述べたとおりです。

 

 本シリーズでは、1816年のマッドフラッドに焦点を当てていますが、気候変動の記録などから、そのさらに200年前の1601年にも同じような大変動があったと考えられています。

 

 この17世紀初頭、1601年の大変動によって、アジアは滅亡し、実質的な力を失ったようです。アジアの文化、文明はその後も残りましたが、国家としての力は失ってしまったということです。

 

 この1601年の大変動についてはここでは詳しく述べません。またの機会に詳しくお知らせしたいと思います。

 

 アジア滅亡後、DSローマは、旧アジア諸国を植民地とし、その地を支配していきました。

 

 こうして18世紀には、世界は大きく、タルタリア帝国、DSローマに2分されていたと思われます。旧アジア諸国は、その多くがDSローマの植民地となっていましたが、日本のように独立を守り続け、2つの勢力のどちらにも与しない国もあったようです。

 

 以前掲載した地図を再び見てみましょう。

 

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 これはおそらく、18世紀後半、フランス革命直前当たりの勢力図だと思われます。

 

 シベリア、中央アジア、朝鮮半島、トルコがタルタリア帝国の版図となっています。ヨーロッパ、すなわちDSローマは、モスクワを含む現ヨーロッパロシアの部分や、アラビア半島を制圧しています。

 

 日本や中国、インドは独自勢力でしょうか。インドや中国はだいぶDSローマに侵食されていたかもしれません。

 

DSローマの侵攻

 時間を元に戻しましょう。

 

 大変動直前の16世紀末の時点で、太平洋北部からシベリア、中央アジアを経由して、モスクワ、さらにはバルト海沿岸のペテルブルグまで、ユーラシア大陸北部はすべてタルタリア帝国の版図だったと思われます。

 

 これに加えて、タルタリア帝国は北アメリカ全土と、南アメリカの大半をも領土としていました。

 

 DSローマの内部はイギリス、フランス、ドイツ、オランダ、オーストリアなど、様々な小国家に分かれていました。これらは全体として共通の文明を共有していましたが、お互いをライバル視して植民地の取り合いを行い、さらには共通の敵としてタルタリアと対峙していました。

 

 光側のタルタリアは一つの帝国としてまとまっているのに対して、闇側のDSローマは、内部抗争を繰り返しているところが、いかにもそれらしいですね。

 

 1601年の大変動の直後、まずはDSローマがタルタリアの領土に対し、侵攻を開始しました。大変動の犯人はもちろんDSローマだったので、大変動が起こることがあらかじめわかっていたため、事前に準備して、速やかに侵攻を開始できたということです。

 

 DSローマ各国は、まずは崩壊したアジア諸国に上陸し、そこを占領して植民地化しました。

 

 さらに、タルタリアの統治下で平和に暮らしていたアメリカ大陸に侵攻し、北アメリカの東海岸一帯を占領、南アメリカにも侵攻してそこで暮らしていた人々を殲滅したと思われます。

 

 さらには東ヨーロッパからモスクワに侵攻し、そこにDSローマに所属するロシア帝国を建国し、バルト海沿岸まで進出して、ペテルブルグを占領しました。

 

 この事件がオフィシャル歴史では、ロシア帝国の建国とペテルブルグ建設として、描かれているというわけです。

 

 この時点で、上記の地図のような、各国の勢力範囲となったと思われます。

 

 タルタリア帝国は、ペテルブルグ、モスクワを含む、ウラル山脈の西までDSローマに占領されてしまった状態です。

 

光の勢力の反撃

 しかし、大変動から復興し、国力を回復したタルタリア帝国は、18世紀後半からDSローマに対して反撃を行います。

 

 その第一弾が、アメリカ独立戦争です。これはおそらく史実とは微妙に異なり、タルタリア領に侵攻して東海岸の領土をかすめ取ったDSローマの主要国、イギリスに対し、現地のタルタリアの住民が反旗を翻し、これを追い出した戦いであると考えることができます。

 

 史実ではアメリカ合衆国初代大統領となっているワシントンは、おそらくタルタリア帝国の北アメリカ総督を務めていたのではないでしょうか。

 

フランス革命の真実

 そしてついに、DSローマ加盟国内の反乱が勃発しました。それが、1789年に起きた、フランス革命です。

 

 これはフランスの民衆が、フランス支配階層に巣くう闇に気づき、闇の勢力を一掃した革命であると思われます。

 

 ちょうどフランス王フィリップ4世による、聖堂騎士団粛清事件とそっくりですね。聖堂騎士団事件については、当ブログの以下の記事をご参照ください。

 

shunsasahara.com

 

 フランス革命では、ギロチンと呼ばれる断頭台が用いられ、効率的にDS たちを処刑していきました。

 

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 オフィシャル歴史では、反革命を片っ端から処刑して野蛮だ、なんて言ってますが、これはもちろん処刑されたDS たちの恨み言にすぎません。

 

 他のDSローマ諸国は、徹底的にフランス革命をつぶそうとし、集団でフランスに攻め込みました。革命は風前の灯火かと思われたその時、現れたのは、英雄ナポレオン・ボナパルトです。

 

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 彼は1799年11月9日(ブリュメール18日)のクーデターで政権を掌握すると、フランス軍を率いて瞬く間に周りのDSローマ諸国を一掃します。

 

 ナポレオンのヨーロッパ侵攻時の地図は下の通りです。赤い部分がナポレオンのフランス支配下の地域です。

 

 

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 ヨーロッパのDSローマ諸国がほぼ一掃されていますね。

 

 ナポレオンのフランスは、もちろんタルタリア帝国と同盟を結んでいました。

 

 1804年、フランス皇帝の座に就いたナポレオンは、1812年、ついにヨーロッパ大陸に残った、最後のDSローマ加盟国であるロシア帝国に攻め込みます。

 

 この侵攻は、おそらく東から攻め込むタルタリア軍と共同で行われたと思われます。

 

 ナポレオン軍は破竹の勢いで進撃し、9月14日、ついにモスクワを制圧しました。

 

 そして悲劇はこの直後に起こったのです。

 

モスクワを襲う核の炎

 ナポレオン軍がモスクワに到着した時、モスクワはもぬけの殻となっていました。ロシアはモスクワ市民を全員退避させ、モスクワを無人にしていたのです。

 

 無人となった大都市に、ナポレオン軍は悠々と侵入し、これを制圧します。都市の制圧が終わって一息ついたその夜、異変が起こりました。

 

 この時の模様はエンドゥさんの以下の動画に詳しく述べられています。ぜひご参照ください。

 

 

www.youtube.com

 

 その夜、多くの兵士が、モスクワ上空に飛んできた巨大な火球を目撃しています。その火球はモスクワ上空に近づくとともに、まばゆい閃光を発し、それからすさまじい爆風と劫火がモスクワ市街を襲いました。

 

 石造の建物がすべて破壊され、モスクワの町は三日三晩、燃え続けました。オフィシャル歴史では、「モスクワ大火」なんて言われていますね。

 

 当時の人はこれがなんだかわからなかったと思いますが、現代のわれわれが当時の記録を読むと、何が起こったかはっきりわかります。

 

 DSは、モスクワに核ミサイルを撃ち込み、核爆発でモスクワを吹き飛ばしたのです。

 

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モスクワのフランス軍

 DSローマとしては、ここでモスクワが陥落し、ペテルブルグまで占領されてしまえば、ヨーロッパ大陸がタルタリアとその同盟国のものとなり、イギリスだけが孤軍奮闘する状態になってしまいます。

 

 イギリスのロンドン、シティの奥深くに巣くうDS ロスチャイルドと、そのバックのレプティリアンたちは、この状況を恐れ、当時人々にまだ知られていなかった、禁断の果実、核兵器を使用したと思われます。

 

 モスクワを占領していたフランス軍の半分以上は最初の爆発で消滅し、その後の大火と放射線障害とみられる症状で、フランス軍兵士は次々と倒れていきました。

 

 ナポレオン本人は奇跡的に無事だったようですが、この後、放射線障害と思われる各種症状に悩まされ続け、本来の能力が発揮できなくなってしまったようです。

 

 モスクワ撤退後、1813年10月に行われた、ライプツィヒの戦いに敗れたナポレオンは、エルバ島に流されてしまいます。

 

 その後エルバ島を脱出し、一時期皇帝に返り咲きますが、ワーテルローの戦いで完敗し、大西洋の孤島、セントヘレナ島に流されて、そこで生涯を閉じることになります。

 

 さすがのナポレオンといえども、核ミサイルの直撃を食らって、無傷で済むことはできなかったようですね。